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わだ ころく

和田小六

わだ ころく

1890.8.5(明治23)〜 1952.6.11(昭和27)

昭和期の航空工学者

埋葬場所: 18区 1種 1側

 木戸孝正(18-1-3)の次男。木戸幸一(18-1-3)の弟。元は木戸小六。和田家の養子となり家を継ぐ。和田家は木戸孝允の実家にあたる。
 東京出身。東京大学工学部造船学科卒。1923(T12)東大教授。のち航空研究所長、技術院次長を務めた。 1944〜'52(S19〜27)まで東京工業大学学長。大学設置審議会委員長、大学基準協会会長も兼ねた。 日本の航空工学の第一人者、本邦航空機構造学の権威。 「和田翼」の名を以って知られ、また'38航研機の世界長距離飛行機の作成指導にあたった。 工学博士。'52(S27)6月11日勲一等瑞宝章。

<世界人名辞典(東洋編)>
<森光俊様より情報提供>
<五輪塔様より情報提供>


わだ ころく

*妻の春子は原田熊雄夫人である英子の妹。原田熊雄は男爵で加藤高明内閣の首相秘書官や西園寺公望(8-1-1-16)の秘書を務めた人物。 その原田熊雄の妹の信子は洋画家の有島生馬に嫁いだ。有島生馬の兄は有島武郎(10-1-3-10)である。 また弟の里見とんは“昭和史文献の双璧”と評された原田熊雄の「原田日記」を整理、校正した人物である。

*妻の春子から見た母方の祖母の加藤福子は西園寺公望の妹である。

*池田勇人の最初の妻の直子は、和田小六の従妹であり、したがって池田は和田小六や木戸幸一と姻戚関係をもったことになる。

*経済学者の都留重人の妻の正子は和田小六の娘である。

*萩に和田家初代の墓は現存しているが、二代以降の木戸孝允の両親まで多磨霊園に改葬されている。

<萩先賢忌辰録>


【航研機】
 1927(S2)5月にアメリカのリンドバーグがニューヨーク−パリ間を3時間29分無着陸飛行に成功。 以来、世界の航空界は、直線・周回での航続距離の世界記録樹立に躍起となり飛行が盛んに行われるようになった。 東京帝国大学航空研究所は、基礎的な研究を行う目的で設立された機関であり、航研機のような実際の飛行機を製作する機関ではなかった。 しかし、斯波所長に代わった和田小六所長のもと、田中敬吉、小川太一郎らを中心として、航研機計画が'33(S8)末から具体的に進められた。
 設計は空気抵抗を徹底的に減らすために、繰織者は離着陸の時だけオープンコックピットから顔を出して機を操縦し、水平飛行中は座席を下げ、胴体内に入ってガラスのふたを閉めるという方式をとった。 そのため、この飛行機の水平飛行は全く前方が見えない設計となった。 また引込脚は、当時日本では未経験であり、航研機の主翼の構造上、車輪を後方に下げてから内方に引き上げるという2段モーションをとらざるを得なかった。これが航研機の最大の弱点である。
 航研機の製作担当会社は、東京(大森)にあった東京瓦斯電気工業(現・日立航空機)。 エンジンは川崎航空機製の液冷12気筒V型を特別に改造したものを使用。プロぺラは日本楽器の木製2枚羽根固定ピッチのものを使用。 機体の製作は'35(S10)4月〜'37(S12)5月25日。羽田で試験飛行(初飛行)に成功した。 更に改修、改良を経て、'38(S13)5月13日、主操縦士藤田雄蔵少佐、副操縦士高橋福次郎曹長、機関士関根近吉技手の搭乗で、木更津(千葉県)の飛行場を離陸し、木更津・銚子(千葉県)・太田(群馬県)・平塚(神奈川県)の四角コースを3日間にわたって飛行。 11,651kmの周回航続距離を達成、1万kmコース平均速度1862km/hの国際記録を樹立した。
 当時国際航空連盟が公認した世界記録には、速度、高度、周回距離、直線距離があり、航研機は3日間の無着陸周回航続距離世界記録と、10000kmコース平均速度国際記録の2つの記録を樹立した。 1910(M43)徳川、日野両大尉が飛行機による日本初飛行に成功してから今日まで、日本の飛行機歴史上、公認の世界記録を樹立したのはこの航研機だけである。


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