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きど たかまさ

木戸孝正

きど たかまさ

1857.7.26(安政4)〜 1917.8.10(大正6)

明治・大正期の東宮侍従長、宮中顧問官、侯爵

埋葬場所: 18区 1種 3側

 長州(山口県)出身。長州藩士・勤王派の来原(くるはら)良蔵、治子(はるこ)の長男。治子は木戸孝允(桂小五郎)の妹。旧名は来原彦太郎。実弟に木戸正二郎(同墓)。
 1871(M4)アメリカに留学し、1874 帰国して開成学校に入学。同じくアメリカから帰国した平岡煕の誘いで、大久保利通の子である大久保利和と牧野伸顕らアメリカの地でベースボールを見知っているメンバーを集めて、日本最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」の結成に参加した。なお日本に初めてベースボールが伝わったとされているのが、その二年前の1872(M5)帝国大学の前身である第一大学区第一番中学でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが学生達に教えたのが最初とされている。
 東京帝国大学理学部、大阪専門学校を修了し、1882(M15)山口師範学校や山口中学校の教師を務めた。この頃、1884.7.7 実弟で木戸孝允(桂小五郎)の養子になっていた木戸正二郎が侯爵を叙爵したが、同.10.28 ドイツからの帰国途中で急死したため、急きょ木戸家を相続するにあたり名前を木戸孝正に改名した。孝允の養子には木戸忠太郎(同墓)もいたが、その時は13歳であったため、正二郎の兄の孝正が抜擢されたと推測する。
 逓信局属、農商務省御用掛、主猟官を経て、1902東宮侍従長・式武官となり、1908年からは宮内顧問官などを歴任した。 
 なお先妻の好子(よしこ:同墓)は木戸孝允の唯一の実子であったが、孝正と結婚してすぐ18歳の若さで亡くなった。子がいなかったため孝允の直系の血筋は断絶したが、孝正は孝允の妹の血統であるため受け継がれている。後妻に壽榮子(すえこ:子爵の山尾庸三の娘:同墓)を迎えた。その長男が昭和天皇の側近で宮内政治家として活躍した木戸幸一(同墓)。二男は、木戸孝允の生家の和田家を継いだ和田小六(18-1-1-2)であり、航空機構造学の権威となる。

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墓誌

*墓石は和型「木戸家之墓」、裏面「昭和三十年六月建之」。左側に墓誌が建ち、俗名と没年月日が刻む。

*長男の木戸幸一の妻のツルは児玉源太郎(8-1-17-1)の四女。幸一とツルの長男は日本勧業角丸証券常務などで活躍した木戸孝澄。次男の木戸孝彦(同墓)は弁護士として、東京裁判で父の木戸幸一の弁護にあたった人物。三男は木戸孝信(同墓)。養子先の弟の木戸忠太郎は地質学者・達磨収集家。忠太郎の妻の千子(同墓)は内務官僚・貴族院議員の小野田元熈の娘。

*山口藩士の木戸孝允(桂小五郎)は幕末維新に際し活躍し、維新後、参議・文部・内閣顧問等を歴任し、西郷隆盛・大久保利通と並び「維新の三傑」と言われた。その功により、孝允の養子の木戸正二郎が侯爵を叙爵した。正二郎の後は孝正、幸一と侯爵を引き継いだ。

*木戸孝允(桂小五郎)は「木戸」姓以前の旧姓は、8歳以前が「和田」、8歳以後が「桂」である。小五郎、貫治、準一郎は通称である。命を特に狙われ続けた幕末には「新堀松輔」「広戸孝助」など10種以上の変名を使用した。雅号は「松菊」。「木戸」姓は、第2次長州征討前(慶応2)に藩主の毛利敬親から賜ったものである。「孝允(たかよし)」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(いみな)である。墓所は京都市東山区・護国寺。



第201回 桂小五郎(木戸孝允)養子は甥っ子
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