京都出身。松本順造、信の子として生まれる(人事興信録には生咲市承の二男とある)。旧姓は生咲。母の信は木戸孝允(桂小五郎)の妻の松子の妹。松子の甥。1876(M9)5歳の時に木戸孝允の養子となる。養子先の兄に木戸正二郎(同墓)。
1877.5.26 養父の孝允が京都にて病没したため、16歳であった木戸正二郎が家督を継ぐ。1884.7.7 華族令の制定により木戸正二郎が侯爵を授けられるも、同.10.28 急死。本来であれば忠太郎が家督を相続するのであるが、13歳であったため、急きょ、正二郎の実兄の来原彦太郎が孝允の養子となり家督と侯爵を襲爵して名前を木戸孝正(同墓)とした。1886 養母で伯母の松子死去。
1898 東京帝国大学理科大学地学科卒業、農商務省に入る。1907.3 製鉄所技師 兼 農商務技師のまま南満州鉄道に入社。地質調査部長として鞍山市・撫順鉱の磁鉄鉱を発見するなど功績を挙げた。地質研究所長に就任。'19『自然界と人間界』を刊行。'21(T10)満鉄疑獄事件で召喚される。'23 南満州鉄道を50歳を機に退職。
隠居後は、京都市中京区の旧木戸孝允邸の別棟に「達磨堂」を建て、達磨収集を本格的にしていく。1909(M42)中国の大連に立ち寄った際、達磨を購入。忠太郎はその達磨を見て、日本の起き上がり達磨と関連があるのか強く興味を持つ。以来、達磨をコレクションするようになり、達磨の収集と研究を始めた。'32(S7)『達磨と其諸相』を刊行。
'41.9.23 郷土玩具の研究会「京都わらんべ会」を結成。'43 木戸別邸と達磨堂を京都市に寄贈。達磨堂には忠太郎が収集した数万点の達磨が並ぶ。木戸別邸と達磨堂は現存・公開されている。享年88歳。『小達磨集』(1977)がある。
*墓石は和型「木戸家之墓」、裏面「昭和三十年六月建之」。左側に墓誌が建ち、俗名と没年月日が刻む。
*木戸孝正の先妻の好子(よしこ:同墓)は木戸孝允の唯一の実子であったが、孝正と結婚してすぐ18歳の若さで亡くなっており子はいない。孝正は後妻に壽榮子(すえこ:子爵の山尾庸三の娘:同墓)を迎えている。その長男が宮内政治家で昭和天皇の側近の木戸幸一(同墓)。孝正の二男で幸一の弟は、木戸孝允(桂小五郎)の生家の和田家を継いだ和田小六(18-1-1-2)。和田小六は航空機構造学の権威。木戸幸一の妻のツルは児玉源太郎(8-1-17-1)の四女。幸一とツルの長男は日本勧業角丸証券常務などで活躍した木戸孝澄。次男の木戸孝彦(同墓)は弁護士として、東京裁判で父の木戸幸一の弁護にあたった人物。三男は木戸孝信(同墓)。
*養子先の弟の木戸忠太郎は地質学者・達磨収集家。忠太郎の妻の千子(同墓)は内務官僚・貴族院議員の小野田元熈の娘。
*山口藩士の木戸孝允(桂小五郎)は幕末維新に際し活躍し、維新後、参議・文部・内閣顧問等を歴任し、西郷隆盛・大久保利通と並び「維新の三傑」と言われた。その功により、孝允の養子の木戸正二郎が侯爵を叙爵した。正二郎の後は孝正、幸一と侯爵を引き継いだ。
*木戸孝允(桂小五郎)は「木戸」姓以前の旧姓は、8歳以前が「和田」、8歳以後が「桂」である。小五郎、貫治、準一郎は通称である。命を特に狙われ続けた幕末には「新堀松輔」「広戸孝助」など10種以上の変名を使用した。雅号は「松菊」。「木戸」姓は、第2次長州征討前(慶応2)に藩主の毛利敬親から賜ったものである。「孝允(たかよし)」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(いみな)である。墓所は京都市東山区・護国寺。