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きど しょうじろう

木戸正二郎

きど しょうじろう

1861(文久1)〜 1884.10.28(明治17)

明治期の侯爵、木戸孝允の養子

埋葬場所: 18区 1種 3側

 長州出身(山口県)。長州藩士・勤王派の来原良蔵、治子の二男。旧姓は来原。治子は木戸孝允(桂小五郎)の妹。兄は木戸孝正(同墓)、甥に木戸幸一(同墓)。
 1866(慶応2.5.18)5歳の時に伯父である桂小五郎の養子となり、桂正二郎と称す。明治維新後、桂小五郎は木戸孝允と改名したため、姓を木戸とした。正二郎よりも年上の養子に桂勝三郎がいたが禁門の変で戦死している。また年下の養子の弟に孝允の妻の松子の妹の信の子供である木戸忠太郎(同墓)がいる。
 1871(M4.2.23)大蔵省出仕、造幣寮事務修業のため、豊原百太郎、岡村篤馬、児玉勝之助、山口武とイギリス留学を命じられる。英国留学を経て、1875.5.1 帰国。帰国後、第一大学区東京英語学校下等科に入り、翌年卒業した。
 1877.5.26 養父の孝允が京都にて病没したため、同..8.7 木戸家の家督を相続した。この時、16歳であった。翌年より華族に列せられる。
 1880.3.17 ドイツ留学を許可され、ベルリンの兵学校で学ぶ。ドイツ留学中、1884.7.7 華族令の制定により侯爵を授けられた。これにより、帰国することになり、同.10.28 帰国途中、セイロン島付近の船中で肝臓病のため急死。享年23歳。
 正二郎の急死に伴い、木戸家の相続人がいなくなったため、同.11.18 実兄の来原彦太郎が木戸家の相続人となり、同.11.20 名前を木戸孝正と改名して侯爵を襲爵した。

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墓誌

*墓石は和型「木戸家之墓」、裏面「昭和三十年六月建之」。左側に墓誌が建ち、俗名と没年月日が刻む。

*兄の孝正の先妻の好子(よしこ:同墓)は木戸孝允の唯一の実子であったが、孝正と結婚してすぐ18歳の若さで亡くなっており子はいない。孝正は後妻に壽榮子(すえこ:子爵の山尾庸三の娘:同墓)を迎えている。その長男が宮内政治家で昭和天皇の側近の木戸幸一(同墓)。孝正の二男で幸一の弟は、木戸孝允(桂小五郎)の生家の和田家を継いだ和田小六(18-1-1-2)。和田小六は航空機構造学の権威。木戸幸一の妻のツルは児玉源太郎(8-1-17-1)の四女。幸一とツルの長男は日本勧業角丸証券常務などで活躍した木戸孝澄。次男の木戸孝彦(同墓)は弁護士として、東京裁判で父の木戸幸一の弁護にあたった人物。三男は木戸孝信(同墓)。

*養子先の弟の木戸忠太郎は地質学者・達磨収集家。忠太郎の妻の千子(同墓)は内務官僚・貴族院議員の小野田元熈の娘。

*山口藩士の木戸孝允(桂小五郎)は幕末維新に際し活躍し、維新後、参議・文部・内閣顧問等を歴任し、西郷隆盛・大久保利通と並び「維新の三傑」と言われた。その功により、孝允の養子の木戸正二郎が侯爵を叙爵した。正二郎の後は孝正、幸一と侯爵を引き継いだ。

*木戸孝允(桂小五郎)は「木戸」姓以前の旧姓は、8歳以前が「和田」、8歳以後が「桂」である。小五郎、貫治、準一郎は通称である。命を特に狙われ続けた幕末には「新堀松輔」「広戸孝助」など10種以上の変名を使用した。雅号は「松菊」。「木戸」姓は、第2次長州征討前(慶応2)に藩主の毛利敬親から賜ったものである。「孝允(たかよし)」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(いみな)である。墓所は京都市東山区・護国寺。



第201回 桂小五郎(木戸孝允)養子は甥っ子
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