東京小石川(文京区)出身。父は薩摩藩士で大蔵官僚、実業家の有島武(同墓)と母の幸の長男として生まれる。弟に洋画家・小説家の有島生馬、小説家の里見とん。 妹の愛は三笠ホテル経営者の山本直良に嫁ぐ。
4歳より横浜英和学校に通い、10歳で学習院予備科、19歳で学習院中等全科を卒業し、農学者を志して札幌農学校に入学した。
札幌農学校在籍時の校長は新渡戸稲造(7-1-5-11)。内村鑑三(8-1-16-29)の感化をうけて、1901(M34)札幌独立基督教会に入会する。
卒業後、軍隊を経験し、'03米国に留学しハーバード大学などで学ぶ。ホイットマンやイプセンらを愛読し、汎神論的傾向が強まる。
ヨーロッパを外遊し、'07帰国。再び予備見習士官となり、後に母校の英語講師をつとめる。弟の生馬を通じて志賀直哉や武者小路実篤らと出会い、人道主義の立場に立ち「白樺」同人として活躍。
白樺派の中心人物として『かんかん虫』『お末の死』などの小説や評論を発表した。その間、信仰的懐疑が深まり教会や内村から離れた。
'16(T5)妻の安子の死を契機に本格的に文学に打ち込み、小説『カインの末裔』『生れ出づる悩み』『迷路』『或る女』、評論『惜しみなく愛は奪う』など、下層階級の女性を描いた作品を多く発表し人気を得る。
'19発表の『或る女』を絶頂期に、段々と創作力が衰え、小説『星座』を執筆途中で筆を絶つ。'22評論『宣言一つ』発表。
同年、ロシア革命を機に北海道狩太村の自分の農地(有島農場)を小作人に解放するなど社会主義思想に傾くが上手くいかず、文芸上・思想上の行きづまりも重なり、また翌年、婦人公論記者の人妻の波多野秋子との恋愛と夫からの脅迫もあり、同年6月9日二人は軽井沢の浄月荘の別荘で情死。享年46歳。
遺書には「森厳だとか悲壮だとか言えば言える光景だが実際私達は、戯れつつある二人の小児に等しい。
愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思はなかった。おそらく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう」と記され、その通り、死体は7月7日に二人の死体は面相も分らないほど腐乱して発見された
*お墓は入り口正面に両親の有島武・幸子の墓、左に「有嶋行直家累世之墓」、その向かい(道に背を向けて)武郎と若くして亡くなった妻の安子のブロンズがはめ込まれているお墓がある。
*有島武の娘であり武郎の妹にあたる愛は、軽井沢の鹿鳴館の旧三笠ホテル経営者であった山本直良に嫁ぎ、その息子の山本直正の妻は与謝野鉄幹と晶子の次女の七瀬と結ばれていることから親戚筋の関係にあたる。
なお、直三の三男の山本直忠は作曲家、指揮者として活躍し、その息子の山本直純も「男はつらいよ」「マグマ大使」などを作曲した作曲家、オズ・ミュージック代表取締役を務めた指揮者であり、更に直純の妻の山本正美も作曲家、長男の山本純ノ介も作曲家、次男の山本佑ノ介はチェリストと音楽一家である。
*母の幸(墓石には幸子)は、旧姓は山内。南部藩出身であり、親戚に新渡戸稲造がいる。
*有島生馬の墓は鎌倉市の材木座霊園(B−11)。里見とんの墓は鎌倉霊園4区4側。
*長男の行光こと森雅之は俳優として活躍。同墓にも分骨されている可能性があるが、本墓は鎌倉市の材木座霊園(C3地区)。二男の敏行は翻訳家、三男の行三は母方の神尾家を継ぎ男爵となる。なお、神尾行三の次男の神尾明朗はシンセサイザー奏者である。
*青山墓地より改葬
有島安子 ありしま やすこ
1888(明治21)〜1916.8.2(大正5)
有島武郎夫人
陸軍大将で男爵の神尾光臣の次女。1909(M42)3月に有島武郎と結婚した。この時、武郎が32歳、安子22歳であった。
'11(M44)長男の行光(森雅之)が誕生。'12(T1)次男の敏行が誕生した。
翌年、安子は三男誕生後、胸を病み健康にすぐれず、'14肺結核を発病したこともあって、療養のために移住していた札幌から一家上京した。
安子は鎌倉に転地し、平塚海岸杏雲堂病院特別病棟で療養した。
武郎は鉄道を乗り継いで湘南に出かけ、妻を見舞って慰めと励ましを与えていたことが、日記・感想・書簡をはじめ諸作品に書かれている。
特に日記の中で病棟をスケッチして「悲劇の舞台」の文字を添えている。'16(T5)8月2日武郎に長い遺書を残して没した。
そこには夫の作家として大成する願いが綴られていた。遺言により、子供たちは安子の床に立ち合わせなかった。
没後、武郎は安子の遺稿集『松虫』を描いた。有島家と親戚筋であり、武郎とも親交があった与謝野晶子は『故有島安子夫人其他』という作品を発表している。
安子の父である神尾光臣は安子没年と同年に没した。なお神尾家代々の墓は雑司が谷霊園1種16号2側にある。
【安子没後の有島武郎】
1916.8.2(T5)妻を亡くした後、『カインの末裔』『或る女』などを書き上げ、文壇の頂点に昇った。
愛するがゆえの苦悩と救済を求める心の彷徨を描く作家の姿、幼い三人の子供を抱えながらも独身主義を貫く潔癖さに、熱狂的な女性ファンも多かった。
しかし、「純粋にして潔癖な愛」というものの有島流の解釈に、武郎自身が息苦しさを感じていた。
'22冬、婦人公論編集者の波多野秋子が初めて武郎を訪問した。
秋子は編集者の才覚よりも、その美貌によって作家たちの覚えめでたく、ときの大物作家、難物作家たちを次々と執筆を承諾させていた。
だが、この冬の武郎初訪問では原稿依頼を断られている。
武郎は「美貌の婦人記者が僕を誘惑にくるんだよ。滑稽じゃないか」と漏らしていた。
'23初頭。何度も訪問する秋子の念願が叶い武郎の原稿を受け取った。秋子はその後も武郎邸を足繁く訪れた。
秋子は武郎が主宰する雑誌の編集を手伝いながら、自身に子供のない人妻は三人の子供たちを何かと世話をした。
こうして武郎と秋子の関係は、作家と編集者というには、あまりに親密なものとなっていく。
二人の関係は、やがて秋子の夫であり実業家の波多野春房の知るところとなる。
そもそも、華族出身の妻を離籍して秋子を迎え入れた後、彼女を青山学院に通わせたのも、職業婦人としての自立を助けたのも、すべてはこの十五歳上の夫の力だった。
ことの顛末を知った春房は、6月6日武郎は秋子と共に波多野の事務所に呼び出され、武郎に金銭での取り引きを持ちかける。
その内容は、「それほどお前の気に入った秋子なら、慰斗をつけて進上しないものでもないが、併し俺は商人だ。
商売人といふ者は、品物を無償で提供しやアしない、秋子は、既に十一年も妻として扶養して来たのだし、それ以前の三四年も俺の手元に引き取って教育してゐたのだから、それ相当の代金を要求するつもりだ。俺ぁこんな恥曝しをしては、もう会社にも勤めてゐられない。
これ、この通り辞表も書いで来てゐるんだ」と言い、「家庭内に言うに忍びざる事件起り」という文言がある和洋二通の辞表を出して見せた。
更に「秋子は、今すぐにでも離籍してやるが、併し、それでいい気になって、おいそれとお前たちが夫婦になるやうなまねは断然許さん。
少くも一年か一年半たってからでなくっちア、第一世間がうるさくって困る。それから、金は、一度だけ支払えばそれですんだと思うな。
俺は、吝嗇ン坊(しわんぼう)のお前を、一生金で苦しめてやるつもりなんだから。それは今から覚悟しておけ!」と脅迫した。
当時、夫ある身の女の不貞は姦通(かんつう)の罪に問われ、男女双方に大きな制裁を与えた。
春房が訴えれば二人は監獄行きであり、これが世間の明るみにでれば、クリスチャンとして貞節と潔癖を重んじてきた武郎の作家生命が、侮蔑と嘲笑にまみれることは見えていた。
しかし、武郎は、春房の報復のような恐喝に対して、「自分が命がけで愛している女を、僕は金に換算する屈辱を忍び得ない」と金銭で愛を汚すことを拒否した。
要求を突っぱねられた春房は、警察に突き出すという脅迫をするが、武郎は「よろしい、行こう」と動じず、この予定外の態度に春房がたじろぎ、「どうしてもお前が支払いを拒むんなら、一人一人お前の兄弟たちを呼びつけて、お前の業晒しをしても、きっと金は取ってみせるからさう思え!」と罵り、食堂へ降りて行ったという。
この一部始終を、その日に入院中であった足助素一を訪ねて打ち明けている。足助はお金を払い相手の気持ちを落ち着かせた方がいいと考え、翌日6月8日午前、病院を抜け出し有島邸に訪れ武郎と秋子に対して金の解決を進めるも、武郎は愛する女を金で換算することは出来ないの一点張りで平行線であった。
更に情死をすることの決意も語り、それを足助は説得するも、何の成果を得られず、引き上げるしかなかった。
秋子と出逢って7ヶ月後、二人は6月8日午後、母に挨拶をし、誰にも行き先を伝えずに軽井沢へと向かった。
その翌朝未明にはもう、軽井沢にある武郎の山荘の愛宕山の別荘・浄月庵の応接間で2人は首を吊った。
亡骸が別荘の管理人に発見されたのは1ヶ月後の7月7日であった。
梅雨時で2人の身体は身元が分からぬほど腐乱し朽ち果て、遺書の存在でようやく分かったという。
有島武郎は享年45歳、波多野秋子は享年32歳。
当時の報道は、心中という醜聞に触れて、波多野秋子を知る人々は誰もがその美貌に言及している。
美しい魔性の女が、人妻であるにも関わらず、亡き妻への愛を貫く偉大な作家を籠絡(ろうらく)した・・・。
大半がそのような視点に立っている。不貞の許さぬ時代であり、職業婦人の風当たりが強い時代にあって、その風を真っ向から受け、武郎の死の責任を秋子が受けてつるし上げられた。
後に加藤シヅエらが、秋子の自分宛の遺書を記者会見で公表し、秋子の気持ちを代弁し擁護するなど、事実が少しずつ明らかになってきたが、世に認識されるまえには時間がかかった。
このような経緯があったためか、多磨霊園の有島家の墓所内にある武郎のレリーフの横には、潔癖な愛と象徴された安子のレリーフが掲げられ、隣り合っている。
なお、武郎の情死によって両親を亡くした長男の森雅之はこの時、12歳であった。
<「安城家の兄弟」里見とん> <日本史人物「女たちの物語」など>
|