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つかごし けんじ

塚越賢爾

つかごし けんじ

1900.11.8(明治33)〜 1944.7.7(昭和19)

大正・昭和期の機関士、
亜欧連絡飛行最短時間記録樹立者

埋葬場所: 21区 2種 34側

 群馬県倉渕村出身。父親は弁護士・地方検事を務めた塚越金次郎(同墓)、母親は英国人エミリー・セラー(旧姓ボールドウィン)。 母とは幼い頃に別離。小さい頃から機械に興味を抱き、日本自動車学校航空科を卒業後、第一航空学校にて三等操縦士の免状を取得。 1924(T13)第1回逓信省航空局委託機関学生に合格し、東京府立工芸学校や所沢陸軍飛行学校にて勉学。 '27(S2)東京朝日新聞社に入社し航空部員となる。飛行機に関する知識や技術力は社内で重宝され、一等航空機関士・二等操縦士・航空通信士・二等航空士の免許も併せて所持する博識多芸であった。
 朝日新聞社は'37.5.12(S12)ロンドンで行われるジョージ6世の戴冠式奉祝の名のもとに、亜欧連絡飛行を計画し、朝日新聞航空部員であった一等飛行機操縦士の飯沼正明(1912-1941 当時26歳)と航空機関士兼無線通信士の塚越(当時38歳)を抜擢、世紀の大飛行を敢行した。 当時は日本とヨーロッパを結ぶ定期航空路はなく、またフランスが東京パリ間を100時間内での飛行の懸賞を出し、フランスの名パイロットたちが挑んでいたが失敗が続いていた。 加えて、東京からロンドンは逆風であるため困難とされていた。朝日新聞社は一般公募の中から東久邇宮が飛行機の名を「神風号」と命名した。この飛行機は陸軍が開発した高速連絡機「キ15」の提供である。
 一度悪天候で引き返したのち、'37.4.6午前2時12分に立川飛行場を出発。 台北・ハノイ・ビエンチャン・カルカッタ・カラチ・バスラ・バグダッド・アテネ・ローマ・パリを中継して、ロンドンのクロイドン空港に到着。 15357kmの距離を実飛行時間51時間19分23秒。途中の給油や整備の時間を入れた全所要時間は94時間17分56秒の大記録達成であった。 それまでの記録は、'28フランス人のコストとルブレによる165時間53分であったので、当時としては驚異的な速度であり、亜欧連絡飛行で飯沼と塚越は最短時間記録を樹立した。 フランス航空省の課題もクリアし、前人未到の記録として歴史に刻まれた。しかも、飯沼と塚越は航空服ではなく、スーツ姿であり、出迎えた人々を瞠目させたと伝えられている。
 この大記録は世界各国のメディアに取り上げられた(記事抜粋は下記参照)。 ヨーロッパの各地を親善訪問した飯沼と塚越は国賓級の英雄として遇せられ、フランス政府は2人に、レジオンドヌール勲章を贈った。 日本でも、北原白秋(10-1-2-6)は「遂げたり神風」と謳い、西条八十は「蒼空の金字塔」と詠じた。 飯沼と塚越は、14日戴冠式の記録映画を積んで、ロンドンを出発、21日に大阪の城東練兵場を経て羽田空港に到着した。 戴冠式の映画は朝日の独占で全国上映された。
 帰国後、朝日新聞社の勤務に復帰したが、'41太平洋戦争に伴い軍務に服す。'44.7.7日独軍事連絡便としてA26型機でシンガポールからベルリンに向う途中、インド洋上で消息を絶った。享年44歳。

<講談社人名事典>
<人物20世紀>
<「神風号の亜欧連絡飛行」HPなど>
<森光俊様より情報提供>


*賢爾は麓(ろく)(同墓 1904-1988.7.15)夫人との間に二男二女をもうけている。長男の塚越恒爾(1931‐)は元NHKアナウンサー、対話総合研究所所長などを務めた。 次男の塚越貞爾(1937‐)はカメラマン。長女は多津子、次女は智津子。

*群馬県倉渕村の生家が塚越機関士記念館とされているが、倉渕村出身は金次郎で、旧戸籍法下であったこともあり、長女の多津子が二歳の時まで倉渕村に籍があったようであるが、実際の生家は東京都大田区である。 その生家も空襲で焼失し、後に長男の恒爾が建て直した。また、塚越賢爾の胸像があるのは今の高崎市倉渕町倉渕体育館です。

<塚越賢爾のお孫様の山本幸雄様より情報提供>


墓誌<クリックで拡大します>

*正面に和型「塚越家之墓」。右側に墓誌がある。墓誌には「塚越賢爾 四十四歳 神風号機関士として世界記録 A26に乗り 昭和十九年七月逝」と刻む。

*人名事典には没年を1943年とするものがあったが、ここは墓誌を尊重することとする。

*'41.12.11飯沼飛行士は、プノンペンの飛行場で事故死した。飯沼の生家は飯沼飛行士記念館(長野県南安曇郡豊科町)となっている。

*亜欧連絡飛行の最短時間世界記録を樹立した10年前の1927.5.21に、チャールズ・リンドバークによって大西洋横断無着陸単独飛行が達成され、世界の航空界は、直線・周回での航続距離の世界記録樹立に躍起となり飛行が盛んに行われるようになった。 日本でも東京帝国大学航空研究所の和田小六(18-1-1)所長のもとで航研機計画が実行され、'38.5.13(S13)3日間の無着陸周回航続距離世界記録と、10000kmコース平均速度国際記録の2つの記録を樹立している(詳しくは和田小六のページへ)。

*飯沼・塚越が記録した亜欧連絡飛行最短時間記録達成は、現在でも語り継がれて良い世界的快挙であるにもかかわらず、「神風号」という名が太平洋戦争の「カミカゼ」と混同するのが原因であるのか、戦後、この快挙が風化しているのが残念だ。 なお、余談であるが、当時の駐英大使は戦後総理大臣となる吉田茂であった。


【亜欧連絡飛行最短時間記録樹立を報道した各誌】

 −-−英航空誌「フライト」(1937年4月15日号)−−−

「日本で設計した飛行機を日本人が操縦し、亜欧二大陸にまたがる長遠な飛行を敢行し大成功をもたらすとは誰が想像したであろうか・・・」
「神風号は飯沼1人によって操縦され副操縦士はいなかった。また単発機であるから1基の発動機が故障すれば万事休すであった、しかるにこの発動機は94時間好調を続けた。 この一事を以ってしても、設計者・製作者の技術はもちろん、全航程の間取り扱いに当たった塚越機関士の非凡な技倆は賞賛さるべきである・・・」
「三菱製単葉機および中島製発動機は外国の特許によるものでは無く、日本独自の設計による・・・」
 と大絶賛し伝えた。



 −−−新聞「ディリー・ヘラルド」(1937年4月9日号)−−−

 「生理学的に日本人は優れたパイロットにはなり得ないと信じられて来た。ある高度に達すると方向感覚を失い、眩暈を覚える。 これは何世紀にも及ぶ米食と魚嗜好による適応異常なのだ・・・」と記述した後で、そのような迷信が打破された、と結んでいる。


※神風号にはレーダーのような電子航法装置は一切なく、無線機しか搭載されておらず、高度計は気圧式であるため誤差が多く、しかも海面からの高度を示すため、山岳地域を越える場合には、対地高度を常に計算して把握する必要があった。 未知の航路を不完全な地図と目視で辿るしかない状況であった。


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