父は陸軍少将の蘆川良治(同墓)。1923.7.21(T12)陸軍士官学校卒業(35期)。同期に榊原主計(後の大佐:19-1-10)らがいる。同.10.25 砲兵少尉に任官。'33.11.29(S8)陸軍大学校卒業(45期)。
少佐の時に関東軍参謀(後方担当の第三課参謀)として、1939勃発したノモンハン事件に巻き込まれる。ノモンハン事件とはモンゴルの草原地帯のソビエトとの国境付近にて、越境爆撃を関東軍の独断で実行し、ソビエトと凄惨な戦いを繰り広げ、危うく国家同士の大きな戦争に繋がりかねない事件を起こしたこと。
東京の参謀本部と事前協議すべきという主張と、関東軍の独断実行の狭間のやり取りなど「備忘録」と題した日記に記しており、ノモンハン戦の研究に欠かせない第一級の記録(戦後も回想している)とされている。結果的に関東軍作戦参謀の辻政信少佐の中央の了承を得ずに独断実行する案を関東軍トップの植田謙吉大将が越境爆撃を了承。関東軍の越境爆撃が独断実行されることになる。これに対して昭和天皇の怒りに触れ、処分を示唆する異例の事態になるが、陸軍の人事権を持つ陸軍大臣の板垣征四郎は、かつて辻の直属の上司でもあり、陸軍内の情実が優先され、昭和天皇が問うた責任は事実上不問に付された。天皇の意向さえ軽んじて独断で行動する関東軍と、それを止められない参謀本部。ノモンハン事件は壮絶な地上戦にエスカレートし、日本軍2万5千人、ソ連軍5万7千人が激突しました。(【ノモンハン事件】に関しては岡本徳三の頁へ)。
その後、第53師団参謀長から、'45.7.13 緬甸(ビルマ)方面軍高級参謀(作戦課長・第一課長)となり、南方軍隷下でビルマ方面の作戦・防衛を担当した。ビルマ・モールメンで終戦を迎えた。