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さかきばら かずえ

榊原主計

さかきばら かずえ

?〜 1984.10.14(昭和59)

大正・昭和期の陸軍軍人(大佐)

埋葬場所: 19区 1種 10側

 東京出身。陸軍中将の榊原昇造・佐登子(共に同墓)の次男(長男が早死したので嫡男)。
 1923.7.21(T12)陸軍士官学校卒業(35期)。同期に蘆川春雄(後の大佐:3-1-29の2)がいる。同.10.25 歩兵少尉に任官。'33.11.29(S8)陸軍大学校卒業(45期)。'36(S11)2・26事件が起きると、陸軍省人事局課員となり、事件関係人事処理を担当した。
 '37.7上海派遣軍参謀となり、呉淞上陸から南京攻略までの戦場勤務に服す。戦後の東京裁判でこの時期に起きたとされる南京虐殺事件を受けて、中支那方面軍の司令官松井石根大将が刑死されたが、榊原は画家の高畠華晃の質問に対して手紙で次のように言っている。 「蒋介石中央軍 20万以下 当時の南京の人口 50万を越えることなし。南京占領時 現存した人口(住民)約15万。私が管理した支那兵役15万。以上の計算で南京虐殺30万とか50万とか言う数字がいかに無稽の数字であるかおわかりいただけると思います」
 '40.12.19参謀本部附(独・伊・ソ駐在)。'42.8.1陸軍大佐に昇進。同.12.22陸軍予科士官学校生徒隊長となり、58期、59期、60期の生徒隊長をつとめた。 '44.10.6支那派遣軍作戦課長、'45.3.9陸軍省人事局恩賞課長、同.7.5参謀本部総務課長で終戦を迎えた。従5位 勲4等 功4級。没後、'85『榊原主計―追悼録』 (榊原主計追悼録刊行会)が刊行された。

<陸海軍将官人事総覧>
<榊原主計―追悼録>
<銀座一丁目新聞 榊原生徒隊長の20年祭法要>


墓所

*墓所入口に「榊原家墓所」の石柱が建ち、その右隣りに「榊原主計之墓」の墓標が建つ。墓所正面の墓石正面には「永遠院殿妙賀日貞大姉」の戒名が刻む墓石が建つ。 右面に榊原昇造の妻の佐登子之墳墓と刻む。左面は没した大正二年八月三十日と刻む。「高林寛 書」とも刻む。 裏面は哀歌と題して萃哉とあり、「佐米賀天延由免乃奈吾利登美通流可南加須味仁志豆武安里阿計能都紀」と刻む。右側に墓誌があり名が刻む。


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