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むたぐち れんや

牟田口廉也

むたぐち れんや

1888.10.7(明治21)〜 1966.8.2(昭和41)

昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 26区 1種 46側 19番

 佐賀県出身。1910.5.28(M43)陸軍士官学校卒業(22期)。同期に牛島敬次郎(後に中将:22-1-73)、寺本熊市(後に中将:13-2-54)、白倉司馬太(後に中将:21-1-17)、中村明人(後に中将:14-1-18-1)、村上啓作(後に中将:22-1-62)、青村常次郎(後に少将:19-1-14)、飯島重助(後に少将:10-1-6)、飯塚国五郎(後に少将:16-1-19-6)、月野木正雄(後に少将:21-1-5)、杉浦章(後に主計少将:10-1-13)らがいた。同.12少尉任官、歩兵第13連隊付。
 '13中尉となり、'17.11.27(T6)陸軍大学校卒業(29期)。同期に後宮淳(後に大将:21-1-12)、田路朝一(後の中将:9-1-17-14)、常岡寛治(後の中将:10-1-4)らがいた。'18.7参謀本部付。'20大尉となり参謀本部部員。'26.3少佐に進級して近衛歩兵第4連隊付、同.8近衛歩兵第4連隊大隊長。'27.5(S2)陸軍省軍務局課員、'29フランス出張、帰朝後は参謀本部部員。'30中佐に進み、'33.12.20参謀本部総務部庶務課長に就任。
 '34.3.5大佐に進級して、'36.3.27北平駐屯兵隊長を経て、同.5.30支那駐屯歩兵第1連隊長となる。翌年盧溝橋事件が勃発すると中国側への攻撃を独断で許可し、事件が日中戦争へ拡大する契機となった。'38.3.1少将に累進し、関東軍司令部付、同.7.15第4軍参謀長を歴任した。'39.12.1陸軍予科士官学校長に就任。
 '40.8.1中将に昇進し、'41.4.10第18師団長となり、同.12.8太平洋戦争が勃発。開戦直後のマレー作戦、シンガポール攻略戦の指揮を執った。'42.1.3要衝クアンタンを占領。シンガポールの戦いにおいて牟田口は、テンガーの飛行場を占領する際、肉薄したオーストラリア兵の手榴弾により左肩を負傷したが、血まみれになりながらも作戦を指揮した。これらによってシンガポール攻略で勇将の名を馳せる。更に部下を率いて、ビルマ戦線にも加わった。
 '43.3.18第15軍司令官となり「インパール作戦」を指揮した。ジャングルと2,000m級の山々が連なる山岳地帯で援蒋ルートを遮断する目的で行う。当初より補給が不可能という理由で反対されていたが、戦局打開から強行実施。山岳地帯であるため自動車等の補給輸送が困難であったので、牛に荷物を運ばせるジンギスカン作戦を発案し決行したが上手くいかず補給が途絶となる。当初の危惧通りインパール作戦がとん挫した後も強行、継続し、反対する前線の師団長を次々に更迭した。このような状況下で、第31師団長の佐藤幸徳中将が命令を無視して無断撤退するという事件も起こった。無謀な指揮により部下に多数の餓死者・病死者を出して惨敗。自身は半死状態の将兵を前線に置き去りにして敵前逃亡同然に東京に転任した。
 '44.8.30参謀本部付、同.12予備役となるが、'45.1.20召集され、再び陸軍予科士官学校長に就任し終戦を迎える。同.8.29免本職、翌月に召集解除。同.12.2 A級戦犯容疑で逮捕。'46.9シンガポールに移送され裁判を受けるが、'48.3釈放された。
 晩年はインパール作戦失敗の責任を問われると、戦時中と同様「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張し弁明した。気管支喘息・胆六嚢症・心筋梗塞治療中に脳出血を併発、最後まで謝罪の言葉はなく逝去。享年77歳。遺言により自説を記したパンフレットが葬儀参列者に配布された。

<コンサイス日本人名事典>
<帝国陸軍将軍総覧>
<東京裁判の100人など>


【インパール作戦】
 インパール作戦(ウ号作戦)とは、1944(S19)年3月から7月初旬まで継続された、援蒋ルート(米国・英国・ソ連による中国への軍事援助に用いる輸送路)の遮断を戦略目的として、インド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。補給線を軽視したずさんな作戦により多くの犠牲者を出した。無謀な作戦の代名詞として現代でも引用される。
 '44.7.2インパール作戦の惨敗により南方軍はビルマ方面軍に作戦の中止を命じた。この頃の作戦の様相を防衛庁戦史でさえも「第15軍の統帥は戦局の行き詰まりと共に漸次錯乱の気配が見え」と極端の文字を使って表現している。同.7.27牟田口とその軍司令部はチンドウィン河の重要渡河点シュウェボまで退去した。その頃、インパールの戦場を離脱した生き残りの将兵は、飢えと傷病に苦しみながら、生と死の境界線であるチンドウィン河に行きつけず、インド=ビルマ国境の山岳地帯をさまよっていた。問題とされている点は、半死状態の将兵を前線に置き去りにして敵前逃亡同然に自らが先に退去したことである。
 戦後、インパール作戦最大の責任者である牟田口がとった謎の行動『北方撤退路視察』について、多くの著作が出て論争となった。多くの著作物は牟田口と第15軍の名誉を守るために、部下の三師団長(弓の柳田・祭の山内・烈の佐藤)の悪名が流された。敗戦の責任転嫁である。だが、柳田師団長の『統制前進』を無限の虚説として訂正したのは防衛庁戦史室編著「インパール作戦」であった。これに対しては、牟田口は自己弁護に終始し、シュウェボへ先に逃げたことについて以下のように言っている。
「当時、私が第一線にとどまることに身の危険を感じたため、シュウェボにいち早く後退したかのように言われるのは心外至極のことである。 あの時、軍司令官たる私がチンドウィン河畔に留まって諸隊の退去を指導することの重要さは私も十分承知していた。 しかし、それよりチンドウィン河以東ジビュー山系間の補給体系をすみやかに確立することこその行動であった。卑怯呼ばわりされては、悲憤の涙なきを得ない」
 以後、新聞・雑誌・週刊誌・テレビ放送局まで歴訪し、自己のインパール作戦に誤りがなかったと説き、それを取り上げることを要望した。このため、多くの新聞・雑誌で牟田口説が紹介された。

<帝国陸軍のリーダー総覧「歴史と旅」
臨時増刊S63/9/5号 秋田書店>


墓所 墓誌

*墓石は和型で「牟田口家之墓」。右側に墓誌があり、戒名は寿光院温誉西岸浄廉居士。妻は敏子。長男の牟田口衛邦(同墓)は住友ベークライト常務を務めた。

*牟田口家の墓所は浅間山の入口と面している道沿いにある。 緩やかな山道に建つこの墓所は墓所内に木が植えられ一体となっているように見える。 軍人畑をエリート街道で登り、シンガポール攻略で名を馳せた勇将も、「インパール作戦」という大事業の前に屈し、晩年はそれを背負い自己を保つしかなかった。 そんな栄光も敗北も引きずることなく、牟田口廉也は名と戒名以外に刻まれていない墓所で眠る。


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