| 歴史が眠る多磨霊園 |
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牟田口廉也 |
むたぐち れんや | |
| 1888.10.7(明治21)〜 1966.8.2(昭和41) | |
昭和期の陸軍軍人(中将) | |
| 埋葬場所: 26区 1種 46側 19番 | |
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佐賀県出身。陸士22期。陸大卒業後、参謀本部員。1927(S2)軍務局課員、29再び参謀本部員となり、33同庶務課長となる。その後36支那駐屯歩兵第1連隊長、38第4軍参謀長を歴任。 太平洋戦争開始後は41第18師団長をへて、43第15軍司令官となりインパール作戦を指揮したが、無謀な指揮により部下に多数の餓死者・病死者を出して失敗した。44予備役に入り、45召集、陸軍予科士官学校長となった。 <コンサイス日本人名事典>
戦後、インパール作戦最大の責任者である牟田口がとった謎の行動『北方撤退路視察』について、多くの著作が出て論争となった。
多くの著作物は牟田口と第15軍の名誉を守るために、部下の三師団長(弓の柳田・祭の山内・烈の佐藤)の悪名が流された。
敗戦の責任転嫁である。だが、柳田師団長の『統制前進』を無限の虚説として訂正したのは防衛庁戦史室編著「インパール作戦」であった。
これに対しては、牟田口は自己弁護に終始し、シュウェボへ先に逃げたことについて以下のように言っている。
「当時、私が第一線にとどまることに身の危険を感じたため、シュウェボにいち早く後退したかのように言われるのは心外至極のことである。
あの時、軍司令官たる私がチンドウィン河畔に留まって諸隊の退去を指導することの重要さは私も十分承知していた。
しかし、それよりチンドウィン河以東ジビュー山系間の補給体系をすみやかに確立することこその行動であった。卑怯呼ばわりされては、悲憤の涙なきを得ない」 <帝国陸軍のリーダー総覧「歴史と旅」
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