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てらもと くまいち

寺本熊市

てらもと くまいち

1889.1.3(明治22)〜 1945.8.15(昭和20)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)、陸軍航空の父

埋葬場所: 13区 2種 54側

 和歌山県出身。八幡八幡宮宮司の寺本政吉の子として生まれる。仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910.5.28(M43)陸軍士官学校卒業(22期)。 同期に牛島敬次郎(後に中将:22-1-73)、白倉司馬太(後に中将:21-1-17)、中村明人(後に中将:14-1-18-1)、牟田口廉也(後に中将:26-1-46-19)、村上啓作(後に中将:22-1-62)、青村常次郎(後に少将:19-1-14)、飯島重助(後に少将:10-1-6)、飯塚国五郎(後に少将:16-1-19-6)、杉浦章(後に少将:10-1-13)、月野木正雄(後に少将:21-1-5)らがいた。 同.12.26歩兵少尉に任官、歩兵第10連隊付けなどを経て、1921(T10)陸軍大学校卒業(33期)。同期に伊佐一男(後に中将:4-1-23)、宝蔵寺久雄(後に中将:9-1-19-11)、井上靖(後に少将:15-1-10)らがいた。翌月より歩兵第10連隊中隊長となる。
 '22.12参謀本部付、参謀本部員、第3師団参謀を歴任後、'25.5より兵科を航空兵科に転じて航空兵大尉となる。同.8少佐に累進し飛行第2連隊付。'26.8陸軍航空本部員、'27.12(S2)航空本部付として陸軍大学専攻学生となった。 '28.12アメリカ大使館付武官補佐官となり米駐在。'30.3中佐になり、'31.2参謀本部付、同.5帰国して、航空本部員。
 '33.8.1大佐に昇進し、飛行第8連隊長に就任。'34.11.16臨時飛行第2大隊長となって満州事変に出征。'35.12.1飛行第16連隊長、'36.12.1航空本部員、'37.7.18留守航空兵団参謀長を経て、同.11.1少将に進級し、浜松陸軍飛行学校幹事に補された。'38.6.10航空兵団参謀長に任ぜられ、日中戦争に出征。'39.8.1再び浜松陸軍飛行学校幹事に着任した。
 '40.8.1中将に昇格し、第2飛行集団長となって満州に赴任。この地にて太平洋戦争を迎える。'42.4.15第2飛行集団が師団に改編され第2飛行師団長となる。'43.5.1第1航空軍司令官、同.7.20第4航空軍司令官としてフィリピン防衛に当たった。 '44.8.30航空本部付となって帰国。同.10.2航空審査部本部長事務取扱を歴任し、'45.4.19航空本部長に就任した。同.8.15終戦の大詔拝聴後、副官に「書きものをするから呼ぶまで来るな」と命じ、室内に太平洋地図と大東亜地図を二枚重ねて敷いた上に、軍装を正して宮城に向かって端座し、古式に則り軍刀で腹を十文字にかき切り、次いで右頸動脈を切った後、拳銃を口にくわえて発射し自決した。従3位 功3級 勲1等旭日大綬章。享年56歳。
 寺本熊市の言「よくもよくも米国を相手にしたものだ。あちらは種を自動車でバラ撒いただけで、ほっておいても穀物の出来る国だ。その上、石油はある、資源はある、第一次大戦以来、連合国数カ国の台所を賄ってきた国だ。国力を侮ったらいかん。しかし決まってしまった以上は天子様にお仕えするだけだ」

 遺書「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」

 '58.10(S33)靖国神社に合祀された。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧など>


*墓所には二基建つ。左が和型「寺本家奥津城」。右が自然石「寺本熊市 / 同 アイ 之墓」。

*故郷の和歌山県橋本市平野に「寺本熊市大日本帝国陸軍中将」碑が建つ。



第462回 「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」
陸軍航空の父 終戦の日に自決 寺本熊市 お墓ツアー


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