メイン » » » 伊佐一男
いさ かずお

伊佐一男

いさ かずお

1891.3.19(明治24)〜 1985.7.1(昭和60)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 4区 1種 23側

 東京都出身。伊佐貢(同墓)の長男。1911.5.27(M44)陸軍士官学校卒業(23期)。 同期に、小畑英良(後に大将)、岡田資(後に中将)、落合忠吉(後に中将:16-1-7)、桜井省三(後に中将:4-1-35-7)、宝蔵寺久雄(後に中将:9-1-19-11)、飯野賢十(後に少将:21-1-20-8)、西原八三郎(後に少将:22-1-79)、山之内二郎(後に少将:12-1-2)らがいる。同.12.26歩兵少尉に任官。'21(T10)陸軍大学校卒業 (33期)。同期に宝蔵寺久雄、寺本熊市(後に中将:13-2-54)、井上靖(後に少将:15-1-10)らがいた。様々な役職を経て、1934.3.18(S9)東京警備参謀となり、'35.8.1大佐に進級し、陸軍士官学校附となる。
 '36.8.1金沢聯隊区司令官を経て、'37.8.2歩兵第七聯隊長に就任した。同.12.13日中戦争中の南京にて、安全区の掃討(便衣兵の摘発など)の担当を任ぜられた。翌日、安全区の出入口十数個所に歩哨を立て無用の者の出入りを厳禁した。便衣兵(べんいへい)とは非合法戦闘員のことであり、軍服を脱ぎ私服を着て戦闘を行う兵士のことであり、これは戦時国際法違反で戦闘員と見なされず、捕虜とは異なり陸戦法規の保護を適用されないこととなっていた。「便衣」は中国語で「平服」を意味することから、「便衣兵」と呼ばれた。中国では一般人になりすまし日本兵を襲う便衣兵に悩まされており、安全区に入り込み戦闘をする者を取り締まる担当となったのである。ここでの出来事が南京事件へとつながっていく(諸説あり)。この時の出来事を伊佐は戦後(S52.11)、『私の従軍メモ日記・伊佐一男』にまとめており、南京戦史の貴重な資料となっている。なお、この日記には「三日間にわたる掃蕩にて約六五〇〇を厳重処分す」と書かれている。この掃蕩戦では、小銃1000挺、軍服6000、下着と夏用の衣服それぞれ2万5000も鹵獲(ろかく:敵の軍用品・兵器などを奪い取ること。戦利品を得る)したとされる。
 '38.7.15少将に昇進し、歩兵第三旅団長となる。'40.3.9西部防衛参謀長、同.8.1西部軍参謀長を歴任し、'41.3.1第六十六独立歩兵団長を任ぜられ、同.8.25中将に進んだ。太平洋戦争中は、'42.12.1留守第五十六師団長、'44.4.6第八十六師団長、'45.5.3西部軍管区附を務め終戦を迎えた。
 伊佐について部下によれば、「修身の教科書に軍服を着せたような方で曲がったことが大嫌いな武人」であり、「任務を離れるとおとなしく、人懐っこい人」との逸話が残る。主な著書に、『歩兵第七聯隊史』 (1967)、『歩兵第七聯隊史〈第2集〉徐州戦』 (1967)、『歩兵第七聯隊史〈第3集〉武漢戦』 (1968)がある。正四位勲二等功三級。享年94歳。

<帝国陸軍将軍総覧>
<田中正明著「「南京事件」の総括」>


墓所

*墓石は和型「伊佐家之墓」。左面が墓誌となっており、裏面は「昭和三年四月吉日 初代 伊佐貢 / 伊佐復雄 建之」と並列し「昭和六十年五月吉日 二代 伊佐一男 更新」と刻む。右面は初代の伊佐貢と妻のよし の戒名や没年月日、俗名、行年が刻む。墓所内右側に伊佐一男を筆頭とした伊佐家先祖代々之零位の墓誌が建つ。伊佐一男の戒名は功徳院殿壽誉無量英将大居士。「従三位 勲二等 功三級」も刻む。妻は静子。子に農学者の伊佐務も眠る。

*戦後、南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫(13-1-21)が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で事件は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅と向井敏明、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった(1人で百人、三百人を斬ることは不可能であり、日本国民の士気を高める新聞記事のネタという解釈が通例で、戦後名誉回復の裁判も行われた)。上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦王は訴追されなかったが、これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。

*【南京事件(南京大虐殺)】【南京裁判】については、谷寿夫のページへ。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・あ | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。