京都府北桑田郡神吉村(南丹市八木町神吉)出身。神吉村の地主で農家であった後宮力(11-1-2)の4男として生まれる。長兄に台湾で金山王の異名を得た実業家の後宮信太郎(11-1-2)、次弟にブラジルや朝鮮で活躍した後宮武雄がいる。
大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905.3.30(M38)陸軍士官学校卒業(17期)。同期に東條英機(後の大将・首相)、今村基成(後の少将:21-1-14)、佐々木吉良(後の少将:21-1-20)らがいた。'17.11.27(T6)陸軍大学校卒業(29期)。同期に田路朝一(後に中将:9-1-17-14)、常岡寛治(後に中将:10-1-4)、牟田口廉也(後に中将:26-1-46-19)らがいる。
関東都督府付、第3師団参謀、第5師団参謀、参謀本部員(鉄道班)、欧州出張を歴任後、'25.12.2(T14)関東軍司令部付(南満州鉄道嘱託)、'29(S4)大佐に昇進し、歩兵第48連隊長、'31.8.1第4師団参謀長をへて、'32.2.5関東軍附(満州国交通部顧問)、同.5.4特務部鉄道主任を兼務した。'34.3.5少将に進み、同.8.1参謀本部第3部長、'35.8.13人事局長、'37.3.1軍務局長、同.8.2中将に累進し、同.10.5第26師団長。'38勲一等瑞宝章受章。'39.8.1第4軍司令官、'40勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章受章。'40.10.3南支那方面軍司令官、'41.7.7支那派遣軍総参謀長となる。
太平洋戦争勃発後、'42.8.17大将に昇進し中部軍司令官を務めた。'44.2.21東條英機首相 兼 陸相が参謀総長を兼任したとき、参謀次長2人制をとり、後宮は第1参謀次長として同期生の東條を助けた(兵站担当の第二次長は秦彦三郎中将)。この時の役職名は軍事参議官 兼 高級参謀次長。同.3.22更に航空総監と本部長も兼務した。同.7サイパン失陥によって倒閣運動が勢いを増すと、東條は重臣らの求めに応じ参謀総長兼任を中止して内閣の延命を図る。自身の身替わりとして後宮に参謀総長を譲るため、内奏まで進むが昭和天皇に危惧され、省部側近からも異論が出て結局は梅津美治郎が参謀総長となった。また東條が退陣して小磯内閣が発足する際に新陸相の候補に名前が挙がったが、海相候補の米内光政の反対にあい幻に終わった。結果、同.7.18軍事参議官のみに戻り、同.8.25第3方面軍司令官に就任した。
満州奉天で敗戦を迎え、シベリアに抑留される。陸軍大将として第二次世界大戦を指揮した立場からいわゆるA級戦犯に指名されるも不起訴となる。'56シベリアから帰国。帰国後は、'63〜'68日本郷友連盟会長を務めた。享年89歳。
<コンサイス日本人名事典> <帝国陸軍将軍総覧など>
*墓石は洋型「後宮家」。墓石の左側には後宮淳小像が建ち、裏面下には「贈 第26師団将校一同」と刻まれている。 墓所右側に墓誌が建つ。長男の後宮虎郎(同墓)は外交官。墓所左側には息子の後宮二郎(同墓)の大きな墓石が建つ。
*京都の神吉の屋敷跡に「陸軍大将後宮淳誕生地」の碑(自筆)が建つ。
*後宮淳の次男の後宮二郎は、1936.6(S11)陸軍士官学校卒業(48期)。歩兵少尉に任官され和歌山県の歩兵第61連隊に配属された。同.11.2多数の兵隊の整列している二年兵の除隊式で「軍人勅諭」を奉読中に誤読。翌々日未明、和歌山歩兵第61連隊第三中隊宿舎にて拳銃自決した。とされる文献もあれば、2.26事件関連本には下記のように記されている。歩兵第61連隊の中隊長であった大岸頼好大尉は直接2.26事件に関係ないにもかかわらず、その指導力を恐れられて予備役に編入された。部下の小隊長をしていた後宮二郎少尉は、父である陸軍省人事局長の後宮淳少将(のち大将)が下したその処分を不当として自殺した。
※蛇足であるが、多磨霊園の墓所は「後宮家之墓」よりも先に、「後宮二郎墓」が建てられており、その墓の大きさは巨大である。父親である後宮淳建之であるため、父に反旗を翻す形で自殺をし世間に恥をさらす形をとった息子に対して建之する墓の大きさではない。よって、「軍人勅諭」を誤読した辱めの責をとるためにという武士道的な自決であったからこそ、軍人一家である誇りとして大きな墓石として称えたとする方がスムーズであろう。真意は不明であるが。
第449回 軍人一家 父は大将 息子は拳銃自決 後宮淳 お墓ツアー
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