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いななみ ひろつぐ

稲波弘次

いななみ ひろつぐ

1908(明治41)〜 1983.12.21(昭和58)

昭和期の陸軍軍人(少佐)、ベルリン五輪馬術選手

埋葬場所: 7区 2種 32側 2番

 富山出身。1922(T11)広島陸軍幼年学校を経て、'29.10.25(S4)陸軍士官学校卒業(41期)。同期に皇族の茂麿王(後に臣籍降下した葛城茂麿。伯爵・陸軍中佐:16-1-5-9)、陸軍中佐から戦後は航空自衛隊空将となった水町勝城(13-1-6)、広島で参謀を務めていて時に被爆した経験等を著述した陸軍中佐の長谷川壽雄(13-1-7)、2.26事件で岡田啓介(9-1-9-3)首相襲撃の実行犯の一人である栗原安秀や、高橋是清(8-1-2-16)蔵相襲撃の実行犯の一人である中橋基明らがいた。
 '36 第11回オリンピック競技大会ベルリン大会にて馬術の日本代表選手に選出される。出場時の階級は騎兵中尉。馬術の日本代表選手は前回のロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した西竹一(騎兵大尉)の他、大瀧翅析此糞格湿佐)、松井麻之助(騎兵大尉)、岩橋学(騎兵中尉)と全員が陸軍騎兵学校所属として出場。
 稲波は大障碍飛越競技と総合馬術に出場。総合馬術個人(馬名:ギャロッピングゴースト)は失権。大障碍飛越個人(馬名:朝富士)で35位であった。この競技で前回大会金メダルの西竹一は前回優勝時にも騎乗したウラヌスで出場したが落馬棄権であった。総合馬術では稲波弘次(馬名:ギャロッピングゴースト)、岩橋学(馬名:ファレーズ)・西竹一(馬名:ウラヌス)で団体6位入賞を果たした。期待されていた大障碍飛越競技が思うような結果を残せなかったことに対して、後に「障碍の水濠は底が見えない水濠に細工がしてあり奮闘むなしくメダル獲得とはならなかった」とこぼした。国威高揚が強かったヒトラー主催の開催国ドイツでの大会であることから自国者に有利な工作があったとの噂もあり、また前回大会の優勝者の西の落馬も、オリンピック後に日独防共協定が締結されていることから、主催国ドイツの選手に金メダルを譲るために西が計った便宜ではなかったかという憶測も流れた。なお、このベルリン五輪での馬術競技の様子は、'38公開の記録映画「オリンピア・美の祭典」(レニ・リーフェンシェタール監督)で観ることができる。
 帰国後は任務に戻り、第79師団兵器勤務隊 騎兵第79連隊(羅南)などに着任し終戦を迎える。最終階級は陸軍騎兵少佐。戦後、ソ連に抑留される。解放後、神戸乗馬倶楽部で馬術教官を務めた。
 戦後、アメリカの価値観に染まっていく日本人を見て、日本の再生を考え、まず日本人の食生活改善に着手。消化吸収のよい食生活から体力向上をさせようと食材やその機械の研究を行った。享年75歳。

<稲波弘彦回想記事の他、陸軍やオリンピック関連など>


墓所

*墓石は藏状で正面「稲波家代々之墓」。右面に墓誌がはめ込まれており、「陸軍少将作田徳次」と生没年月日の刻みから始まる。作田の妻は浪恵(S20.11.2歿)。稲波弘次の戒名は大乘院釋弘海居士。妻は澄江(S23.5.12歿)、1歳で亡くなった晴美(S20.12.18歿)も眠る。稲波弘次の三男は医療法人財団 岩井医療財団会長、稲波脊椎・関節病院名誉院長の医学者の稲波弘彦。弘彦の義父は岩井宏方。

*稲波弘次が12歳(1920:四谷第三尋常小学校)の時に日本とイタリアの友好を描いた絵が、100年後に発見された。これは、1920(T9)ローマを出発したイタリア陸軍航空部隊2機が、ローマから3カ月半かけ約18000キロを飛行し日本に到着。イタリア人飛行士達を歓迎するために、東京の小学生(7歳から15歳まで)が描いた絵画と書(計164点)、2冊の記念帖を贈ったものがイタリアで発見された。後に画家となる田中一村や建築家になる吉村順三の作品もあった。2019.12.9(R1)「1920-2020ローマ東京間飛行100周年」講演会にて公にされた。現在はイタリア空軍博物館所蔵されている。


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