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はせがわ としお

長谷川壽雄

はせがわ としお

1908(明治41)〜 2006.4.30(平成18)

昭和期の陸軍軍人(中佐)、被爆者、実業家

埋葬場所: 13区 1種 7側

 大阪府堺市出身。父は陸軍少将の長谷川国太郎(同墓)。弟の長谷川實(同墓)は陸軍砲兵大尉で日支事変にて戦死。
 1922(T11)広島陸軍幼年学校に入り、'29.10.25(S4)陸軍士官学校卒業(41期)。同期に皇族の茂麿王(後に臣籍降下した葛城茂麿。伯爵・陸軍中佐:16-1-5-9)、陸軍中佐から戦後は航空自衛隊空将となった水町勝城(13-1-6)、2.26事件で岡田啓介(9-1-9-3)首相襲撃の実行犯の一人である栗原安秀や、高橋是清(8-1-2-16)蔵相襲撃の実行犯の一人である中橋基明らがいた。少尉に任官し、福山の歩兵第41連隊に所属。陸軍大学校(専科)卒業。
 陸軍士官学校予科区隊長。歩兵第41連隊中隊長、東京陸軍幼年学校生徒監、教育総監部課員、広島師団参謀(第5師団司令部)、陸軍省人事局課員などを歴任し、'45.4(S20)第2総軍参謀として、畑司令官と共に広島へ着任した。同.8.6宿舎から馬に乗って第二総軍司令部に向かっていた途中で、広島に投下された原子爆弾にて被爆。終戦時の階級は陸軍中佐。
 戦後、中央化成工業株式会社の社長となる。戦争体験等の著作があり、ラバウルでのことをまとめた『幻のポートモレスビー』、『草枕 四ヵ月間に五千粁転戦した歩兵中隊の陣中記録』、自分史の『君子豹変』などがある。享年98歳。

<「幻のポートモレスビー」著者略歴など>


 被爆の体験を自身の著作『君子豹変』(1992)に詳しく書かれているため引用紹介する。

 朝食後、7時頃に出た警報が解除となった8時過ぎ、息苦しいほどの真夏の日差しのなか、馬に乗っって第二総軍に向かった。日頃は速歩で泉邸(縮景園)前から白島を経て常盤橋を渡るのだが、この日は暑さを感じて、逆方向の栄橋を渡り、総軍司令部に行くことにした。 橋を渡り左に折れて猿こう川左岸の堤防をニギツ神社の方向に向かった。50メートルも進んだ頃、突然、遙か左の前方から黄色い光が津波のように、矢の速さで拡がり、左から右に走り、あっという間に前後を包まれたかと思った瞬間、至近距離に爆弾が落ちたような激しいショックを受けた。 馬はたちまち暴れたが、姿勢を低くしてしがみついた。馬は右側の高さ1間ほどの崖を駆け降り、鉄道線路との間の空地に飛び込んだ。急いで馬から飛び降りて辺りを見渡したが、どうしたことか、真っ暗で何も見えない。顔がヌラヌラするので手を当てると左のコメカミが切れて血が勢いよく流れている。 やがて明るくなってきたので早く司令部に行こうと、右手に見える旧騎兵第5連隊にある司令部を見た。2棟の建物のうち1棟は崩れている。気が付くと腰に付けていた軍刀がなかった。道に這い上がってふと見ると、乗っていた馬が悲しげな声で、泣きながら訴えるように長谷川を見ている。 馬は、のどが切れて、皮と肉が10糎ほど垂れ下がっていた。乗ろうとしてもヨロヨロして、役に立たない。その間もコメカミの血がどんどん流れて止まらない。馬を見捨てるのは可哀そうで、乗るのをやめ引き馬にして歩き出した。 ニギツ神社の茅葺きの屋根が煙を上げているのを見ている間に火を噴きだした。司令部で手当てを受け、井本熊男参謀の手配により自動車で陸軍病院に行くことになった。負傷した真田穣一郎参謀副長、村田武参謀、川村参謀、森口主計大佐が同乗した。車は戸坂村の陸軍病院戸坂療養所に向った。


*墓石は和型「長谷川家之墓」。墓誌があり、戒名は峯巌院清國壽照居士。妻は芳子。


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