岡山出身。岡山藩一門池田伊賀守元家臣の岡田●平(●=口+金)の長男として生まれる。弟(5男)の岡田包義(1900-2000)も内務官僚で徳島県知事や北海道庁長官を務めた。1915(T4)家督を相続。
1903(M36)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。逓信省に入省し鉄道書記となる。内務省に移り、'06静岡県事務官を振り出しに、大分、奈良、山口、熊本各県の事務官を経て、内務省書記官、警保局警務課長、長崎県内務部長、'15(T4)東京府内務部長を歴任。
'16.10.13内務大臣の後藤新平の地方長官大更迭に際し行政手腕を見込まれて、第17代埼玉県知事に抜擢され就任(任期:1916.10.13-1919.6.28)。文官分限令の休暇ののち、'21.5.27 第18代長野県知事に就任(任期:1921.5.27-1922.10.16)。次いで、'22.10.16 第16代熊本県知事に任ぜられた(任期:1922.10.16-1923.10.12)。
'23.10.13内務省警保局長に就任するが、虎の門事件で引責辞職。'24東京市高級助役となるが退官し、同年の第15回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し初当選した(以来通算8回当選)。政界では、中正倶楽部に所属したが、'25中正倶楽部右派と革新倶楽部右派が立憲政友会に合同したのに伴い政友会に入党。'27(S2)政友会の総務、'36衆議院副議長を務める。'39政友会分裂に際しては、久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属し、正統派の幹事長となる。政党解消後は翼賛議員同盟に所属、'42翼賛選挙後の衆議院議長(35代目)に就任した。帝国議会の戦時協力体制化を果たし、鈴木貫太郎内閣では大日本政治会を代表して厚生大臣として入閣した。
敗戦後、旧政友会正統派(鳩山系)が結党した日本自由党や、大日本政治会を母胎とする日本進歩党には参加せず、院内会派・無所属倶楽部の結成に参加した。しかし、公職追放。'52解除後、日本再建連盟顧問となるも、同年実施された第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で立候補して当選。政界に復帰した。だが、翌年の選挙では落選し政界から引退を表明。弟の岡田包義を後継者とし譲るが弟も落選('55衆院選)した。従4位 勲3等。享年80歳。