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おおた こうぞう

太田耕造

おおた こうぞう

1889.12.15(明治22)〜 1981.11.26(昭和56)

昭和期の弁護士、政治家

埋葬場所: 22区 1種 44側 17番

 福島県出身。旧二本松藩の豪商・勢州屋八代長左衛門より分家し、金融機関の相生社(あいおいしゃ)結社に参画した太田貞郎の4男として出生。
 明治30年代前半の金融危機により本家と共に連鎖倒産し、小学校を中退せざるをえなくなった。姉の影響で日本基督一致教会福島教会(日本基督教団福島教会)で洗礼を受け、キリスト教青年活動に従事しながら、私立 学半塾を修了。牧師を志し上京し、聖学院神学校に入学したが、牧師への道を断念、法律家・政治家に進むことを決意した。東京中学、旧制第四高等学校、明治大学法学部を経て、東京帝国大学法学部英法科に入った。
 在学中から国家革新を志し興国学生連盟(七生社の前身)を結成して活動、平沼騏一郎(10-1-1-15)に私淑。1920(T9)卒業。卒業後は東京地方裁判所所属の弁護士となり、5・15事件や血盟団事件などの被告弁護に当たる。 同時期に、平沼騏一郎の主宰する国本社に参加し幹事を務め、現代政治思想史研究の機関紙『国本』の重要メンバーとして国家主義運動に傾倒した。
 '38(S13)法政大学教授に就任したが、'39.1平沼騏一郎内閣誕生に伴い、総理大臣秘書官に任命され、同.4 内閣書記長(官房長官)、同.8 貴族院議員として政治家になるや才能を買われて、翼賛会・翼政会の各総務に立て続けに抜擢された。この間、'41興亜専門学校設立の中心の一人としても活動。
 '45.4 鈴木貫太郎内閣発足に伴い文部大臣に任命される。学徒動員局を設けて学徒隊を編成するなど戦争末期の文教行政を推進し、閣内では天皇制存続と無条件降伏に反対の立場をとった。終戦後、'45.12.2第3次A級戦犯容疑に問われ1年半、巣鴨刑務所に拘留されたが、不起訴処分で出所。
 その後は、弁護士として活動する一方、日本再建の起訴は青少年の正しい育成であるとの理念より、教育に情熱を傾注した。'54興亜専門学校の後進である日本経済短期大学の学長に就任。翌年、日本経済短期大学経営科および貿易科を亜細亜大学へ改組(形式的には同短期大学同科を廃止して亜細亜大学を設置)し、初代学長 兼 理事長に就任した。
 「日本及びアジアの文化社会の研究と建設的実践に重点を置き、もってアジア融合に新機軸を打ち出す人材を育成するをその使命とする」と説き、「自助協力」を建学精神として、「アジアは一つであり、教育こそ国を救う源である」と訴え、派遣留学生制度の確立、アジア各国から多くの留学生を受け入れ、文化交流や国際親善などに大きく貢献した。
 他に自由アジア擁護連盟代表や、一時期、福島テレビ会長などを務めた。享年91歳。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<二本松市・ふるさと人物史>
<東京裁判の100人など>


墓所

*墓石は和型「太田家之墓」。左面に太田鶴子(S11没)、太田二三子(S49没)、太田構造の名と没年月日が刻む。


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