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いのうえ りっし

井上立士

いのうえ りっし

1912.3.19(明治45)〜 1943.9.17(昭和18)

昭和期の小説家

埋葬場所: 20区 1種 18側 12番

 大津市神出町(三井寺町)出身。元々の実家は京都府京丹後市であるため戸籍の本籍地は京都の地である。後に陸軍中将となる父の井上政吉(同墓)の赴任先で生まれた。母は初音。 1歳の時に父の赴任先の千葉へ家族で移住。4歳の時に父の赴任先の大津市に家族で移住。その地で弟(次男)の正士が誕生。6歳の時に弟(三男)の正三が誕生。 同年、父の赴任先の仙台に家族で移住。12歳の時に父の赴任先の京都府伏見区に家族で移住し学校も転校するも、翌年、父が奈良市に異動となり、家族も奈良に移るため転校。 1926(T15)14歳の時に、東京陸軍幼年学校に入校。'29卒業し、陸軍士官学校予科に入校したが、半年後に肺疾患のため退校した。
 '31(S6)19歳の時に第二早稲田高等学院に入学。この頃より、モーパッサンやラディゲを愛読。執筆を始める。'32「今日の文学」同人となる。 同誌に『休止符!』を発表。'33同誌に『不躾なる棲息者』を発表。同年、早稲田大學文学部独文科に進むが中退。加宮貴一の主宰する「今日の文学」に『僕のステツプ』を発表。 この頃、名古屋新聞東京支社に勤務した。後に青山青年会館会報の編集にも従事。また、龍胆寺雄らの「ROMAN」同人となった。'35〜'37石川達三らの「星座」の同人に参加。'35「レツエンゾ」に『ダンサー・アラモード』、「星座」に『足跡』を発表。
 '38「新公報」の編集に携わり高見順に師事。「新大衆」編集を経て、通文閣に勤務。ほかに「セルパン」「新文化」の編集にも加わり、また創作も続ける。
 '41.3野口冨士男、船山馨、十返一、田宮虎彦、皆川潤、牧屋善三、青山光二と「青年藝術派」を結成。単行本形式の同人誌「青年藝術派・新作短編集1」に『男女』を発表。 同.8「新創作」に『華燭』を発表。同.12「青年藝術派新作集 八つの作品」に『もつと光を』を発表。また、生年藝術派業書の書き下ろし長編『男性解放』を刊行した。 しかし、翌年、1月に『男性解放』、2月に「青年藝術派新作集 八つの作品」が内務省警保局の検問により発禁処分となる。この年は、「文芸主潮」同人になる。 同.2「早稲田文学」に『兎と亀』、「新創作」に『魔笛』、同.6「青年藝術派新作集 私たちの作品」に『花嫁』、同.11「新創作」に『秘唱』を発表した。'43.4「現代文学」に『ぐずべり』、同.8「辻小説集」に『黒船』を発表。
 この夏、高見順を長野の発哺温泉に訪ね、不在のため帰京したが、疲労が原因で粟粒(ぞくりゅう)結核に罹り静養。東京六本木の額田病院に入院後に急逝。 享年31歳。葬儀では高見順が弔辞を読んだ。同.11「新創作」に十辺、野口、同.12「現代文学」に南川、三雲祥之助、丹羽文雄の追悼文が掲載された。 作風は青年の恋愛心理を探求したものが得意とした。没後、'44書下ろし長編『編隊飛行』が刊行され、第1回航空朝日航空文学賞受賞。

<「井上立士 年譜・書誌稿」 外村彰>


墓所 墓碑 寝石

*墓所正面に「井上家之墓」。裏面は「昭和十七年五月 井上政吉 建之」と刻む。墓石右側に井上政吉の墓碑が建つ。正面は「修練院殿武徳一貫大居士 / 修徳院殿政室智音禅定尼」、左面に井上政吉と妻(室)初音の俗名と没年月日が刻み、井上政吉は「台二十三師団長 陸軍中将 正四位 勲二等 功三級」と刻む。墓石左側に井上立士の墓碑が建つ。正面は「立正院禅岳彗定居士」、裏面に「立士」とあり没年月日と行年が刻む。その左手前に「陸軍大尉井上正三之碑」と正面に刻む墓碑が建つ。裏面は「昭和十六年五月二十九日 戦闘機空中訓練中 満州国牡丹江省 被河鎮附近に於て殉職す。行年二十四歳」と刻む。その左手前に墓誌があり、井上正士(政吉の次男で陸軍少佐、朝日生命)、悦子夫妻のみ刻む。墓所右側に仙幼会有志建之の「山紫に水清き」と刻む寝石がある。仙幼会は仙台陸軍幼年学校の卒業生の集いの会のこと。政吉は仙台陸軍幼年学校生徒監主事を務めた経歴がある。

*立士のヨミは戸籍上では「たつし」だが、本人は「たつお」が本名だと称し、刊本の奥付には「りっし」と記されている。よって、井上立士を研究されていた外村彰氏が“筆名は「りっし」で統一すべき”に則り、「りっし」とする。


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