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くさば たつみ

草場辰巳

くさば たつみ

1888.1.2(明治21)〜 1946.9.20(昭和21)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 5区 1種 23側

 滋賀県出身。草場彦輔陸軍少将の2男として生まれる。弟の草場季喜も後に陸軍少将となる。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908.5.27(M41)陸軍士官学校卒業(20期)。同期に山田鉄二郎(後に中将:21-1-13)、山本昇(後に主計中将:16-1-3-9)、藤田與五郎(後に少将:22-1-86)らがいた。同.12.25歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となった。'15.12.11(T4)陸軍大学校卒業(27期)。同期に大島浩(後に中将:14-1-2-3)、小泉恭次(後に中将:22-1-50)、沼田徳重(後に中将:20-1-29)、浅野嘉一(後に少将:15-1-15)、田中毅一(後に少将:12-1-13-5)らがいた。
 参謀本部付勤務、第1鉄道線区司令部員、参謀本部員、朝鮮軍司令部付、歩兵第4連隊大隊長などを歴任。'24.11から陸軍大学専攻学生となる。翌年12月、陸軍大学教官。その後は参謀本部員兼軍令部参謀、第6師団参謀、陸軍省人事局課員、陸軍兵器本廠付、関東軍司令部付(南満州鉄道)などを務めた。'31(S6)3月から8月まで欧州に出張。帰国し、同.8.1大佐に昇進し参謀本部課長に就任。'33.8.1 歩兵第11連隊長、'35.3.15 関東軍司令部付(満州国交通部顧問)を経て、'35.8.1 少将に進級した。
 '37.3.1 歩兵第19旅団長となり日中戦争に出征し、保定会戦、南京攻略戦に参加した。南京事件のとき、南京に突入した部隊の指揮を執っていた。南京に突入した師団の一つである中島今朝吾中将率いる第16師団(京都)は二つの旅団からなっており、一つが佐々木到一少将が率いる第30旅団、もう一つが草場率いる第19旅団(第9連隊と第30連隊)であった。
 '38.10.30 第2野戦鉄道司令官、'39.3.9中将に昇進し、関東軍野戦鉄道司令官に就任した。'40.10.1 第52師団長に親補され満州に駐屯。'41.11.6 関東軍野戦鉄道司令官となる。この時に太平洋戦争が勃発。'41.12.21 第4軍司令官、'44.2.7 参謀本部付を務めた。同.11.30待命、同.12.1予備となる。同.12.16召集を受け大陸鉄道司令官として復帰した。
 '45.9終戦後、シベリア抑留となる。'46.9.17連合国側から極東国際軍事裁判(東京裁判)に証人として出廷することを命じられ、草場のほか、関東軍参謀副長を務めていた松村智勝少将と、関東軍参謀だった瀬島龍三中佐とともにウラジオストクから空路東京へソ連側証人として護送された。草場は東京に護送されて4日目に東京・丸の内三菱ビル3号館の一室で隠し持っていた青酸カリを飲んで自決した。享年58歳。従3位 勲1等 功3級。
 3通の書き置きのうち公式当局と親族宛の2通は捜査資料に添付された。手帖に残され遺書には「私の罪は、私が大陸鉄道司令官であったのにもかかわらず、満州の避難民に輸送(列車)を確保できなかったことです。私は死ぬほかありません」と書かれていた。またロシア連邦国立公文書にある担当官の報告書には『自分の仲間について証言することは非常に心苦しいと遺書に書いてあった』とされる。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧など>


*墓所正面は「草場家之墓」。戒名は大乗院殿透嶺祖関大居士。没年月日は昭和21年9月17日と刻む。享年は59歳と刻む。

*山崎豊子の小説『不毛地帯』は壹岐正と秋津千里との関係について描かれているものであるが、秋津千里の父親で「秋津中将」として登場する人物のモデルは草場辰巳といわれる。

*父の草場彦輔の墓は旧大津陸軍墓地(滋賀県大津市皇子が丘一丁)にあり、この墓地に眠る軍人の中で最も階級が高い。墓石の左側面に「男辰巳」と建之者として刻まれているが、草場辰巳のことである。


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