鹿児島県姶良市加治木町出身。東京陸軍中央幼年学校を経て、1908.5.27(M41)陸軍士官学校卒業(20期)。同期に草場辰巳(後に中将:5-1-23)、山田鉄二郎(後に中将:21-1-13)、山本昇(後に主計中将:16-1-3-9)、藤田與五郎(後に少将:22-1-86)らがいた。同.12.25歩兵少尉に任官。
その後、累進して、士官学校生徒隊付、第14師団司令部付、第24旅団第一連隊付、歩兵第13連隊付、近衛歩兵第2連隊付などを歴任。'22(S7)北満の戦いで武勲を立てる。星河付近で戦闘中に腹部貫通銃創を受けるも戦闘の陣頭指揮に立ち、遂に戦敵をせん滅した。驚くべき氏善像に大陸雄飛の志あり。
'36.3(S11)陸軍歩兵大佐に昇進。同.8 予備役に入る。同.10 関東軍嘱託となり軍事最高顧問の職に就く。純蒙古人部隊四千人を編制し大漢義軍と称し日系指導官となった。同.11.3 大漢義軍が動き出したら、百霊廟は伝作儀軍の急襲を受け、盛島機関は徳化に撤退。同.11.30から百霊廟の奪回作戦が開始。盛島角房の地域は夜間は零下三十度という極寒の中。大漢義軍の中には、敵側の工作員が多数入っており、その動向は全て敵に筒抜けであった。同.12.2 百霊廟に迫った大漢義軍はいったん錫拉穆林(シラムレン)に退いた。同.12.9 内蒙古 錫拉穆林(シラムレン)で反乱が起こり、小濵は自ら軍を率いて奮戦したが、日本軍の顧問団29人が処刑され戦死〔綏遠事件(すいえんじけん)〕。享年49才。辞世の句「大義如山君恩重 勇躍上途満蒙天」。
日本政府は有田八郎(9-1-1-2)外相が「今次綏遠のことは、内蒙古軍との紛争で、帝国の干与するところではない。したがって、内蒙古軍の行動に関して政府はもとより、軍に於ても何等援助を与えていないことは勿論である」と声明を出した。後日、殉死した全員に日本帝国政府は叙勲を行う。正5位 勲3等 功4級。
'39.7 没後、シラムレンで全滅した盛島機関の同志を含む29人の碑が蒙古高原シラムレン河畔の巌上に、盛島角房が自らの撰により「二十九烈士殉難の碑」を有志で建立。碑には反乱により殺害された29人の日本軍顧問らの氏名と事件の経過と追悼文が刻された。しかし、戦後、この碑は不明となった。'82『蒙塵(もうじん) : 小浜大佐伝』(著:舩木繁)がある。