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あべ のりひで

阿部規秀

あべ のりひで

1887.9.8(明治20)〜 1939.11.7(昭和14)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 21区 1種 13側

 青森県北津軽郡七和村(五所川原市)出身。1907.5.31(M40)陸軍士官学校卒業(19期)。同期に香積見弼(後に中将:20-1-25-1)、田路朝一(後に中将:9-1-17-14)、沼田徳重(後に中将:20-1-29)、浅野嘉一(後に少将:15-1-15)、森本義一(後に少将:20-1-39)、後藤和儀(後に大佐:21-1-13)らがいた。 同.12.26歩兵少尉に任官。陸軍大学には進まず、自身の能力と人脈で出世していった無天組のトップといえる人物とされる。 その後、'32.4.11(S7)仙台陸軍教導学校学生隊長を経て、'33.8.1大佐に昇進。'35.8.1歩兵第32聯隊長、'37.8.2少将に累進し、歩兵第1旅団長となった。
 '39.6.1(S14)独立混成第2旅団長に就任し、同.10.2中将となる。同.10.26太行山作戦(日中戦争)に参加すべく、独立混成第2旅団から独立歩兵第2、第4大隊約1500人を率いて張家口を出発。 八路軍と交戦。峻険な太行山の地形を巧みに利用した八路軍のゲリラ戦法に苦戦しつつも、奥地へ進撃をし、同.11.7黄土嶺へと到着。 しかし、撤退したと思われていた八路軍が、密かに旅団を包囲網に誘い込んでおり、策略にはまり、迫撃砲を受け、腹部や両足の十数か所に致命傷を負い、その夜に戦死。享年52歳。 功三級金鵄勲章。新聞は「名将の花、太行山に散る」と各誌報じた。
 この砲撃を行ったのは、八路軍晋察冀軍区第1軍分区第1団の兵士の李二喜、当時まだ18歳の若者であった(2010.3.28に没したことが日本でもニュースで取り上げられた)。 日本の新聞が阿部の訃報を報じたことで「手柄」が判明し、この功績により抗日英雄として「神砲手」の称号を与えられた。現在、この迫撃砲は中国で国家一級文化財に指定され、北京の軍事博物館に陳列されている。
 なお、阿部死後、指揮官を失った残存部隊は窮地に陥るが、独立混成第2旅団の残部と第26師団、第110師団続いて航空機部隊の支援を受け、包囲網を突破し、逆転して八路軍を劣勢に追い込み撤退させた。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<「陸軍中将阿部規秀戦死に関する報告」など>


*墓石は和型「陸軍中将阿部規秀之墓」。右面に略歴が刻む。裏面は「昭和十五年五月七日 阿部秀一建之」と刻む。


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