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つかだ おさむ

塚田 攻

つかだ おさむ

1886.7.14(明治19)〜 1942.12.18(昭和17)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(大将)

埋葬場所: 9区 1種 19側

 茨木県猿島郡櫻井村(古河市)出身。塚田幸右衛門の5男。旧名は六右衛門。
 成城学校を経て、1907.5.31(M40)陸軍士官学校卒業(19期)。同期に浅野嘉一(後に中将:15-1-15)、阿部規秀(後に中将:21-1-13)、香積見弼(後に中将:20-1-25-1)、田路朝一(後に中将:9-1-17-14)、沼田徳重(後に中将:20-1-29)、森本義一(後に少将:20-1-39)、後藤和儀(後の大佐:21-1-13)らがいた。 同.12.26歩兵少尉に任官し、歩兵第3連隊付。
 '10.11 中尉に進み、'14.11.27(T3)陸軍大学校卒業(26期)。同期に皇族の朝香宮鳩彦王(後に大将)、東久邇宮稔彦王(後に大将・内閣総理大臣)、首席の山脇正隆(後の大将)、優等の安藤利吉(後の大将)、藤江恵輔(後の大将)、今井清(後の中将:8-1-14)、澤田茂(後の中将:4-1-26-2)、原常成(後の中将:16-1-10)、飯塚朝吉(後の少将:3-1-25)、佐々木吉良(後の少将:21-1-20)らがいた。
 '17.8 大尉、'22.8 少佐、'24.11 陸軍大学校専攻学生、'25.12 陸軍大学校教官、陸軍省軍務局課員、参謀本部部員などを歴任し、'27(S2)中佐になり、参謀本部作戦班長となる。
 '31.3.11 大佐に昇進し、台湾軍歩兵第2連隊長に就任した。'32.2.29 陸軍歩兵学校教官、同.6.27 陸軍省兵務課長、'33.8.1 関東軍第1課長を経て、'35.8.1 少将に進み、同.9.7 参謀本部第3部長に着任。'37.11.2 日中戦争が勃発すると中支那方面の参謀長となって松井石根大将を補佐し作戦を指導。
 '38.3.5 第37代 陸軍大学校長に補された。同.7.15 中将に累進、同.12.10 第8師団長に就いた。'40.11.15 杉山元(15-1-3-11)参謀総長のもとで参謀次長を務め、南方作戦の計画や日米交渉にあたる。他にも関東軍特種演習、支那事変の処理、そしてアメリカとの戦争は避けられないという判断で南方作戦の計画にあたり、'41.11.6 南方軍総参謀長に就任。同.12.8 太平洋戦争勃発。序盤の南方作戦(あ号作戦)と軍政を担当した。
 事前計画に計画をしていた「あ号作戦」は破竹の勢いで連戦連勝をおさめる。「あ号作戦」は、比島作戦(M 作戦)や馬来作戦(E 作戦)、蘭領印度作戦(H 作戦)、グアム作戦(G 作戦)、英領ボルネオ作戦(B 作戦)、香港作戦(C 作戦)、ビスマルク作戦(R 作戦)の総称で、これと連動して実施された海軍の真珠湾攻撃は「Z作戦」と呼称された。これら実施した作戦のほぼ成功をおさめた。
 '42.7.1 第11軍司令官に転身し漢口に赴任。同地周辺の中国軍撃破に任じた。同.12.18 南京から司令部のある漢口への帰途、安徽省で中国軍の砲撃によって乗機を撃墜され、大別山系で飛行機は墜落し殉職。享年56歳。没後、正3位に叙せられ、1階級特進し大将に追贈された。戦国武将を思わせる八字ヒゲ、木戸学顕現に不断の克己修練に努めた精神家、智勇兼備の名将と称された。

<帝国陸軍将軍総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<20世紀日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<大衆人事録東京篇>


*墓石は洋型「塚田家之墓」、裏面が墓誌となっている。塚田攻から刻みが始まる。戒名は大乗院殿釋覺城居士。妻は登久(M20-S24.5.16)、茨城県出身、熊木藤右衛門の一女。二人の間には二児を儲け、長男は登(T10-S60.12.19)、二男は裕(T15-S30.4.21)と全員同墓に眠る。


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