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まき ありつね / ゆうこう

槇 有恒

まき ありつね / ゆうこう

1894.2.5(明治27)〜 1989.5.2(平成元年)

大正・昭和期の登山家

埋葬場所: 13区 1種 6側

 宮城県仙台市出身。銀行家の槇武(同墓)の二男として生まれる。兄の槇智雄(同墓)は政治学者。弟(6男)の槇弘(同墓)は原爆放射線衛生士・医師。甥(弟・五男の槇武彦の子)の槇文彦は建築家。植民地経営の実業家である槇哲(あきら)は叔父にあたる。
 12歳の時に、父と富士山に登って山好きとなる。1914(T3)慶応義塾大学在学中に恩師の鹿子木員信とともに日本山岳会を設立した。'17 法学部卒業後、'18 から米国コロンビア大学に留学。'19 からヨーロッパに移り、オックスフォード、プリンストン、ベルンの大学に留学。日本人初の英国山岳会員。'21 アルプスの難ルートであるアイガー東山綾の初登攀に成功した。この快挙は日本人登山家の存在を世界に印象づけた。
 '23 立山松尾峠での遭難などの苦難を味わっており、同年刊行した『山行』は大正・昭和初期を代表する山の名著として名高い。'25 日本初の海外遠征登山隊を率いて、カナディアン−ロッキー山脈の処女峰マウント−アルバータ山 (3,619m) の世界初登頂に成功。この時に絹のクライミングロープを初めて使用したとされる。またスイスから持ち帰ったピッケル「シェンク」を日本に紹介した。
 帰国後は、岩登りをわが国に紹介し、学生登山界に大きく貢献した他、登山ガイドらにスキーの講習を行い、皇族たちともスキーや登山を共にし、また上流階級の子弟からなる秩父宮サロンのリーダーもつとめた。昭和天皇が皇太子時代に御前で「登山」をテーマにした講演を行っている。
 '29(S4)塩水港製糖に入社。'35 塩水港製糖の取締役に就任。'42 南洋拓殖理事を務めた。'44 木暮理太郎(22-1-44-21)の後を継いで日本山岳会会長に就任。戦時中に南洋拓殖会社の役員をつとめていたこともあり、戦後は公職追放。このため、日本山岳会会長を辞す。
 '51 第7代目会長として復帰(〜'55)。また国民体育大会(国体)に登山部門が設立されると、'49 第4回国体登山部門会長に就任した。
 '56(S31)ヒマラヤ山脈の未踏峰の一つであったマナスル遠征隊の第三次隊長として、8,125メートルの初登頂を成功させた。この快挙は世界各国でも報道された。これにより、仙台市名誉市民、文化功労者、勲三等旭日中綬章を受章。
 その後も立山観光顧問や、イギリス、アメリカ、スイスなどの山岳会の名誉会員になっている。'67〜'69 日本山岳協会会長。主な著書は『マナスル登頂記』 (1956) 、『ピッケルの思い出』 (1958) 、『私の山旅』 (1968) などがある。  新しい登山技術を日本に紹介し、近代登山の発展に大きく貢献したことで、近代アルピニズムの開拓者と称された。享年95歳。

<コンサイス日本人名事典>
<小学館 日本大百科全書>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<人事興信録など>


墓所

*墓所には二基。正面は「槇 武 之墓 / 槇 千年 之墓」、裏面「昭和八年一月十八日右面に両名の戒名と没年月日が刻む。槇武の戒名は良温院殿武山銕心居士。墓所左手側に「槇家墓」。その左に並んで墓誌が建つ。墓誌は槇智雄から始まり、戒名は隆徳院殿顕學智雄居士、従三位勲二等も刻む。智雄の妻は外交官の小田切萬寿之助(11-1-5-16)の長女の冬子(1900.12-1986.3.1)。冬子の妹の峯は長尾半平(6-1-5-8)に嫁いでいる。槇有恒の戒名は崇嶽院殿慈圓有恒居士、従四位勲三等も刻む。有恒の妻の適子は陸軍中将の大島健一(14-1-2-3)の四女で、戒名は瑛泉院有室順適大姉、107歳の大往生(H24.5.14歿)。適子の兄は陸軍中将でドイツ大使の大島浩(14-1-2-3)。槇弘は戒名はなく、勲三等旭日中綬章と刻む。弘の妻は千枝(H20.12.16歿・95才)。槇武の八男の槇文郎(1912-1969.2.5)も同墓に眠る。



第299回 マナスル初登頂成功 近代アルピニズムの開拓者 槇有恒 お墓ツアー


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