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こぐれ りたろう

木暮理太郎

こぐれ りたろう

1873.12.7(明治6)〜 1944.5.7(昭和19)

明治・大正・昭和期の登山家、山岳研究家

埋葬場所: 22区 1種 44側

 群馬県新田郡強戸村大字寺井(太田市)出身。農家に生まれる。6歳の時に赤城山に登って以降、登山を好むようになる。志賀重昂の「日本風景論」に啓発された。
 16歳の時に上京。郁文中学校、仙台第二高等学校を経て、東京帝国大学文学部史学科及び哲学科に学ぶが中退。1903(M36)頃、博文館発行の雑誌「ハガキ文学」の編集に携わり、'08『泰西名畫鑑』を著した。この間、'07 東京市史編纂嘱託となり、生涯この職(勤続四十年)にて市史稿の編集などをしながら、登山や山の研究に専念し、日本登山界の元老として秩父・上越の開拓先覚者となった。
 1896(M29)木曾駒・秩父に登る。この頃より秩父や南アルプス、上越方面を中心に登山を行う。'13(T2)日本山岳会に入会(会員番号319番)。田部重治(9-1-18-21)をパートナーとして、槍ヶ岳、薬師岳、剣岳、立山と案内者なしの画期的な縦走を行う。'16 朝日岳、雪倉岳、白馬岳、針ノ木峠を縦走。当時はまだ地図が作成されていない時代に於いて、日本アルプス、秩父山地、奥利根、中部地方など未踏の山々にパイオニア登山を実践し、大正から昭和の日本山岳会の発展に尽くした。
 山に登るだけでなく、山岳展望、登山史研究、地名の考証、ヒマラヤ研究など山岳研究家の第一人者としても活動。またロッククライミング、ワンダーフォーゲル、沢登り、登山道、高山病、山岳遭難など登山に関するイロハも伝えた。加えて、地形、火山、高山帯、渓谷、山岳気象など山岳についての知識も広く伝え、登山ブームの素地をつくった。
 主な著書に『思い出す儘に』(1934)、『山と村』(1934)、『山の魅力』(1934)、『山の今昔』(1936)、他にも、機関誌「山岳」を通じて、日本アルプス、剣岳、奥秩父、尾瀬、木曾、北岳、朝日岳、金峰山、黒部渓谷、白馬、八ケ峰、大方山など数多くの山岳紀行を執筆し、それらの山の魅力を紹介した。
 中でも、東京から見える山々を初めて明らかにした『望岳都東京』(1934)は多くの人たちに山の魅力を伝え、登山の普及に繋がる。また『山の憶い出』(上1938・下1939)は日本山岳会の傑作といわれ、何度も改編出版されて登山愛好者を増やすことに貢献。日本の山岳界に大きな影響を及ぼした。
 '35(S10)第3代日本山岳会会長に就任。'41.1 日本山岳会が社団法人になると、その初代会長に就任した。病気のため逝去。享年70歳。没後、日本山岳会を引き継いだのは槇有恒(13-1-6)である。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<平凡社百科事典>
<小学館日本大百科全書>
<小暮理太郎翁顕彰碑略歴など>


墓所 墓誌碑

*墓石正面「小暮家之墓」、裏面「昭和十三年九月 小暮理太郎 建之」。右面は墓誌となっている。墓所左側に墓誌碑が建ち「社団法人日本山岳会 第三代会長 小暮理太郎 ここに眠る 社団法人日本山岳会 会長 山田次郎 書」、裏面「平成五年五月吉日 小暮利夫 建之」と刻む。

*山梨県北杜市須玉町の金山平(かなやまだいら)に「小暮理太郎翁顕彰碑」が建つ。この碑は、'50.5.6 小暮理太郎翁の遺徳を永く世に伝えるため、「小暮理太郎翁胸像建設委員会」が発足し、'51 小暮没6年目に顕彰碑が建立された。碑は表に佐藤久一朗作のレリーフの木暮像がはめ込まれ、「木暮理太郎翁」と題した碑文が刻む。裏面には「木暮理太郎略歴」と「いわれ」を刻した二枚の銅板がはめ込まれている。毎年10月第3日曜日に日本山岳会の有志によって「木暮祭」が行なわれている。なおこの碑は当初、現在の碑の位置から上方二百メートルの地点に建設されたが、'59(S34)台風7号による附近の崩壊が甚だしく、現在の地に移し再建され直されたそうだ。

*郷里の群馬県太田市寺井町に木暮理太郎翁生誕之地の碑が建つ。


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