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たなべ じゅうじ

田部重治

たなべ じゅうじ

1884.8.4(明治17)〜 1972.9.22(昭和47)

大正・昭和期の登山家、山岳紀行文家、英文学者

埋葬場所: 9区 1種 18側 21番

 富山県上新川郡山室村(富山市長江)出身。南日喜平の四男として生まれる(長男が早世のため公には三男表記が多い)。長兄の南日恒太郎は英語教育者、次兄の田部隆次は英文学者(別の田部家に養子)。旧姓は南日(なんにち)。同郷の田部キヨ(同墓)の婿養子となり、以後は田部姓になる。
 四高から東京帝国大英文科に進み、1908(M41)卒業。卒業後、中央大学、国学院大学、東洋大学、法政大学などで講師・教授を歴任した。専門は19世紀の英文学であり、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ワーズワースなどを研究した。『中世欧州文学史』や訳書などの著書も刊行。
 一方で同時に、立山山麓で生まれ育ったこともあり、四高時代に林並木教授の影響を受けて登山に関心を抱き、大学時代に木暮理太郎(22-1-44-21)と知り合って山に親しみ始め、北アルプス、奥秩父など多くの山々を登り登山家として活動。小暮をパートナーに、槍ヶ岳、薬師岳、剣岳、立山と案内者なしの画期的な縦走を行った。特に毛勝岳の初登山や秩父における足跡は貴重とされている。
 はじめは生家の苗字の南日重治(なんにち じょうじ)の名前で紀行文を発表していたが、後に本名の田部重治の名で、1919(T8)『日本アルプスと秩父巡礼』など多くの登山紀行や山に関する著書を出版した。主な著書に『山と渓谷』(1929)、『峠と高原』(1931)、『若き日の山旅』(1956)など多数。
 田部は「静観的登山」を普及させ後世に大きな影響を与えている。「静観的登山」とは、岩壁や氷壁をただ登って頂上を目指すことに集中するのではなく、より豊かな心で自然を鑑賞しようとする登山のことである。
 '50(S25)日本山岳名誉会員に推される。'65 晩年、自伝『わが山旅五十年』を刊行した。享年88歳。

<コンサイス日本人名事典>
<朝日人物事典>
<人事興信録など>


*墓石正面「田部家之墓」、裏面「昭和六年八月二日 田部重治」。左側に墓誌が建つ。妻はキヨ。

*南日喜平、みん の子は男女7人ずつ14人おり、長男含む2人の男児が早世したが12人は成人した。嫡男として育てられた二男(実質長男)は南日恒太郎。三男は田部隆次。四男が田部重治。五男が江上英三。六男が脇坂雄治。なお、もうひとり早世した男児の生没年がわからないため、五男以降前後する可能性があることを加筆しておく。長女は深井八重。二女は南日フサ。三女は江上フジ。四女は嶋田マサ。五女は石坂ミト。六女は赤間ヌヒ。七女は島田ミサホ。

*富山市の法華寺にも分骨されている。



第298回 登山家 英文学者 二刀流 静観的登山の普及 田部重治 お墓ツアー


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