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まき たけし

槇 武

まき たけし

1861.7.13(文久1)〜 1941.1.28(昭和16)

明治・大正・昭和期の銀行家

埋葬場所: 13区 1種 6側

 越後長岡藩士の槇小太郎の長男として長岡弓町に生れる。幼名竹之丞。慶応義塾で学僕として学び、1886(M19)福沢諭吉の斡旋で仙台の奥羽日日新聞主幹として入社。 のち東京穀物取引所長を経て三井銀行に入社、神奈川銀行頭取となる。全員同墓に眠る息子には教育者の智雄(長男)、登山家の有恒(次男)、慶応義塾大学医学部を卒業して医師になった弘(三男)がいる。 同墓ではないが、弟(次男)には植民地経営の実業家である槇哲(あきら)がいる。

<槇之実−槇智雄先生追想集>
<MATSU様より情報提供>


墓所

*墓所には二基。正面は「槇 武 之墓 / 槇 千年 之墓」、裏面「昭和八年一月十八日右面に両名の戒名と没年月日が刻む。槇武の戒名は良温院殿武山銕心居士。墓所左手側に「槇家墓」。その左に並んで墓誌が建つ。墓誌は槇智雄から始まり、戒名は隆徳院殿顕學智雄居士、従三位勲二等も刻む。智雄の妻は外交官の小田切萬寿之助(11-1-5-16)の長女の冬子(1900.12-1986.3.1)。冬子の妹の峯は長尾半平(6-1-5-8)に嫁いでいる。槇有恒の戒名は崇嶽院殿慈圓有恒居士、従四位勲三等も刻む。有恒の妻の適子は陸軍中将の大島健一(14-1-2-3)の四女で、戒名は瑛泉院有室順適大姉、107歳の大往生(H24.5.14歿)。適子の兄は陸軍中将でドイツ大使の大島浩(14-1-2-3)。槇弘は戒名はなく、勲三等旭日中綬章と刻む。弘の妻は千枝(H20.12.16歿・95才)。槇武の八男の槇文郎(1912-1969.2.5)も同墓に眠る。


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