東京都出身。銀行家の槇武(同墓)の三男。長男は教育者の槇智雄(同墓)、次男は登山家の槇有恒(同墓)。
1948(S23)原爆傷害調査委員会(ABCC)に赴任し、原爆放射線の人体への影響調査の始動に尽力。
日本側を代表する厚生省国立予防衛生研究所・広島支所長を務め、またABCCの一員として準所長を併せて務められ、以後'75ABCCが現在の放射線影響研究所(放影研)に改組されるまでの27年もの間、日本を代表する立場にあった。
退職後3年間顧問を続け、後に名誉顧問。日米両国間の見解や意見の調整、被爆者ならびに地域社会関係者との調整という諸難題に対し、超人的な忍耐力と寛容さをもって解決に努力された。享年94歳。
告別式は10月24日、広島市佐伯区のアライアンス・キリスト教会において執り行われた。
*墓所には二基。正面は「槇 武 之墓 / 槇 千年 之墓」、裏面「昭和八年一月十八日右面に両名の戒名と没年月日が刻む。槇武の戒名は良温院殿武山銕心居士。墓所左手側に「槇家墓」。その左に並んで墓誌が建つ。墓誌は槇智雄から始まり、戒名は隆徳院殿顕學智雄居士、従三位勲二等も刻む。智雄の妻は外交官の小田切萬寿之助(11-1-5-16)の長女の冬子(1900.12-1986.3.1)。冬子の妹の峯は長尾半平(6-1-5-8)に嫁いでいる。槇有恒の戒名は崇嶽院殿慈圓有恒居士、従四位勲三等も刻む。有恒の妻の適子は陸軍中将の大島健一(14-1-2-3)の四女で、戒名は瑛泉院有室順適大姉、107歳の大往生(H24.5.14歿)。適子の兄は陸軍中将でドイツ大使の大島浩(14-1-2-3)。槇弘は戒名はなく、勲三等旭日中綬章と刻む。弘の妻は千枝(H20.12.16歿・95才)。槇武の八男の槇文郎(1912-1969.2.5)も同墓に眠る。