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くれ けん

呉 建

くれ けん

1883.10.27(明治16)〜 1940.6.27(昭和15)

明治・大正・昭和期の内科医学者、画家

埋葬場所: 21区 1種 25側 1番

 祖父は蘭学者の呉王石、父は統計学者の呉文聡、共に同墓。東京出身。1907(M40)東大医科卒業。内科学専攻。'11ドイツ、オーストリアへ留学して医学を研究、へーリング教授に師事。 '13(T2)帰国後、東大助教授を経て、'20九州大教授、'25東大に戻り教授となる。医学博士。 循環器病学、神経生理学の権威であり、海外でもドイツのエルランゲン物理医学協会、ブタペスト王位医学協会通信員、アテネ大名誉ドクトル、第二回万国神経学会副会頭などに招聘された。 交換神経に関する研究で日本内科学会恩賜賞、緊張の栄養に関する研究で服部奉公会賞、脊髄副交感神経に関する研究で帝国学士院恩賜賞を受賞した。 研究の傍ら、東大病院で一般患者の治療に専念し、心臓病・神経痛の権威として多くの患者を診る。'30(S5)イタリアのヨリグランオフチアレーロロナイタリア勲二等が贈られる。 また随筆をよくし、洋画にも優れており、帝展・文展に6回も入賞する腕前であった。享年58歳。没後、正三位勲二等旭日重光章。

<世界人名辞典(東洋篇)東京堂出版>
<墓所内の呉建記念碑を解読>


*呉建の墓所入り口右側には大きな「呉建之碑」が建つ。 碑は厚生科学研究所長林春雄 篆・帝国学士院曾員で文化勲章を受章した稲田龍吉 撰・裏面に日高第五郎 書と刻み、呉建の略歴等が刻む。同墓に父の呉文聡も眠る。呉家之墓石左側には、植木に隠れるように、「藝州呉氏」と刻む寝石と共に三基小さな墓が立つ。右は「黄石山田先生夫妻の墓」・真ん中は広島藩蘭医の「呉黄石の墓」・左は黄石の妻で箕作阮甫(14-1-2-2)の娘のせき墓で「故呉黄石配箕作氏之墓」がある。

*墓所は呉建没後一周忌に建立された。墓所内右裏手にある呉王石らの墓所は青山の実相寺より改葬された。なお、建の没後は呉守一が継いだ。


墓地

家系図
家系図


*ノーベル財団のウェブサイトでは50年間の守秘義務期間が過ぎた当時の候補者たちや選考課程が開示され、戦前には北里柴三郎や野口英世ら日本人17人が、のべ42回候補者に挙げられていることが判明した。その候補者として呉建は、1931年・1933年・1935年・1936年・1937年・1939年と6度もノーベル生理学・医学賞の候補者として名前が挙がった。候補理由は、循環器病学、神経生理学を研究し、特に脊髄副交感神経の発見は海外でも注目される程の権威者であったこと。しかし、候補者に何度もリストアップされるも選出されなかった理由を、国連大使を歴任した松平康東は、当時日本が枢軸国であったことから受賞に至らなかったとしている。



第63回 ノーベル賞に6度もノミネート 脊髄副交感神経発見 呉 建 お墓ツアー
 ノーベル賞を逃したけどスゴい人(戦前編)3部作その3


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