高崎城内出身。内村家は江戸時代初期は農夫であったが、内村杢兵衛至之が島原の乱で勲功を立てて、高崎藩の士分に取り立てられた。宜之は6代目となる。幼名は金之丞。
御側頭取を勤めていたとき、藩主松平輝声は「強心隊」を編成して、藩の軍制を洋式に改革していた。宜之も藩主に従っていたが、藩論が一致せず、藩主と共に江戸に移る。明治維新後は、高崎藩所轄の陸前牡鹿、桃生、本吉の権判事と、石巻県少参事、登米県少参事、高崎県少参事を歴任。
1871(M4)廃藩置県により、高崎県が他9県と合併され群馬県となり、高崎藩知事の大河内輝声(松平から改姓)は罷免された。宜之も県小参事を免ぜられ、大河内輝声の相手役を行った。以降、公職につくことなく隠居。
晩年は長男の内村鑑三(同墓)がキリスト教指導者になったことで感化を受けクリスチャンとなり、カナダ・メソジスト派の日本メソジスト教会下谷教会の会員となった。東京府にて逝去。享年74歳。
*最初は雑司ケ谷の墓地にて埋骨された。1932.3.16(S7)多磨霊園に改葬。墓所正面に「内村鑑三之墓」右側に「内村祐之之墓」、墓所右手側に「内村家」が建つ。墓所左手側に「内村ルツ子の碑」、その右側に墓誌が建つ。墓誌には76歳歿と刻む。
*妻の八十子(ヤソ)との間には6男1女を儲ける。長男の内村鑑三(同墓)、達三郎、道治、ヨシ、順也らを儲けた。内村達三郎は新潟の北越学館、高知、新潟、大阪、群馬、秋田で中学校教員を務め、英文学者として多くの翻訳を手掛けた。孫に17歳の若さで原因不明の病いにて亡くなった鑑三の長女の内村ルツ子(同墓)、鑑三の長男の内村祐之(同墓)は精神科医せプロ野球コミッショナーを務めた。祐之の妻の内村美代(同墓)は翻訳家。