播磨国(兵庫県)出身。明石藩士の子として生まれる。旧姓森本。本名は介石(すけいし)と読む。兄に画家の松年竹夫、弟に昆虫学者の松村松年。
1870(M3)上京し、安井息軒の塾にて儒教を学び、のち京都の市村水香の塾、神戸にて無月謝で英語を教えてくれるアトキンソン宣教師に英語を学ぶ。
1876横浜のジョン・クレイグ・バラ学校(バラが主任教授をしていたヘボン塾)に学費が安いという理由で入学。
ここで聖書に触れ、「キリスト教で解く神は、儒教の天帝、皇天に他ならず」との天啓にうたれ、キリスト教に入信。
1880バラ学校が東京築地に移転し築地大学となるにあたり、介石は舎監として働き、また同じ築地にあった一致神学校(明治学院)でキリスト教を本格的に学ぶ。しかし、わずか2ヶ月で外人教師たちと対立して辞める。
1882キリスト教に対する熱意と才能を惜しんだ新島襄と金森通倫(15-1-13)が、備中(岡山)の高梁教会の牧師として迎えた。
当初18人であった信者を1年間で118人に増やした。しかし、備中は反基督教色が強い土地であり、治安を取り締まるべき警察署長が公然と、基督教会追放を唱え住民を煽動することもあり、1884高梁教会迫害事件が起きた。
集会中の投石等で負傷者が出るも、迫害にくじけない意志のもと毎週の集会を続けた。迫害は続き、暴徒達を前に「しばらく時間をくれ、私が声の涸れるまで弁じて、最早声がでなくなったら石でもって自分を殺してくれ」と最後の演説を嘆願し命を賭けた演説を行った。
結果、当時の高橋岡山県知事の耳にも入り、県知事が派遣した警部と巡査が暴動の最中に到着したため、今まで煽っていた警察署長が驚き、暴徒達に解散を命じたため、介石の命はつながった。
高梁教会を去り、「福音新報」、「基督教新聞」などの主筆を務める。その後、山形英学校を経て、北越学館教頭となる。
北越学館は1887新潟に設立された基督教系学校で、教頭の内村鑑三(8-1-16-29)が学校側と対立(北越学館事件)で去った後任として呼ばれた。
事件後混迷する生徒たちに向かって、介石は基督教色が強い学校において、陽明学の「良知良能」を基礎とした教育を施す決意をし、校則を全廃すると告げた。しかし、「自ら省みて悪いと思うことは一切してはならない。ただ善と思うことのみをすべきである。これが我が校唯一の校則である」と宣言したという。
この生徒の良心に訴える校則全廃運動は当初は勝手振舞う生徒たちが多かったが、介石の生徒たちへの諭しにより、赴任中の2年間は生徒たちに受け入れ何の問題も起きなかったという。
1890リンカーンの伝記である『阿伯拉罕倫古龍(「リンコルン伝」)』(アブラハムリンコルン)や『修養録』を著す。
1892から5年間、東京神田の基督教育年会館で道徳教育講話や古今東西の英雄豪傑伝の講演を行ない、毎月6000人もの聴衆が集まる盛況であった。
1896頃「足尾銅山鉱毒事件」にも深い関心を示し、田中正造とともに鉱毒地を見て回ったり講演会を開いたりもした。
1905鎌倉に閑居して「万国最近史」を執筆。この頃より、宗教にも教育にも社会事業にも収まらない幅広い活動が、かえって介石に「一体吾は何を為さんとするのか」との疑問を抱かせることとなる。
加えて、キリスト教指導者として活動をする途上において、来日している宣教師の東洋人を差別して見下げる態度や戒律を守らない姿勢、キリスト教にも様々な宗派が存在すること、またその神学にも互いに矛盾するような教理があり、加えて、旧約聖書にあるおとぎ話的内容の疑問とダーウィンの進化論など、改めてキリスト教と向き合うことが多くなる。
そして「真に生ける宗教をもってその大任を全うするべきである」という内容の天啓を受け、伝導に一生を捧げる一大決心をするに至る。
'07古典的な正統派のキリスト教から離れ、老荘・王陽明の思想と日本古来の思想を融合した、特定の教派に属さない、儒教的キリスト教を解く宗教団体「日本教会」を設立。
その信条は神を信じる事「信神」、徳を修めること「修徳」、人を愛すること「愛隣」、霊魂不滅の「永生」の4ヶ条である。
機関誌「道」を発行。大倉孫兵衛・森村市左衛門ら財界の支持を得た。'08相互に精神的交友を結ぶ目的として「道友会」を結成。
新渡戸稲造(7-1-5-11)や尾崎行雄など各界名士が参加した。
'09「心象会」を結成し、藤田霊斎の「息心調和法」や心霊治療の普及に尽力し、翌年、「真養会」を組織して、藤田霊斎の「息心調和法」を重要な修行法のひとつとし、更にこれを大隈重信に紹介したり、宮内大臣に頼み調和法の本を天覧に供したりしたため、世間では「呼吸法ブーム」「強健ブーム」が巻き起こった。
他にも、哲学・宗教・道徳などを、普通の人々にも解りやすく解説するために、講談のスタイルをとって講釈する「教談会」の結成や、毎月青年たちの弁論大会を開催した「不朽青年会」を結成した。
'11日本教会を「道会」(どうかい)と改称する。道会の中心的存在として大川周明らがいる。'14(T3)海外視察。
当時は第一次世界大戦中であったため、報知新聞の従軍記者という名目で欧米各国を視察。'15帰朝。'31(S6)全国の支部が36箇所となる。その後も精力的に布教活動や執筆をした。
代表的な著書に『立志之礎』『修養録』がある。また正岡芸陽が「松村介石」(1901)を著している。享年81歳。