岡山県出身。東京帝国大学英法科卒業。内閣拓殖局に入り、鉄道省運輸局総務課長を最後に1924(T13)官途を離れ、以来ヨーロッパ・アメリカ・オーストラリア・インド各国の大学等に遊説。
'25.7.1太平洋地域諸国間の相互理解と情報交換を目的とした民間有識者による太平洋問題調査会が、ホノルルで初会議を開いた際、日本側代表として沢柳政太郎と参加した。
その後の太平洋会議にも毎回出席し、わが国外交に対する国際的理解を喚起するための民間外交推進につとめ、日中戦争勃発後国民使節としてオーストラリア・アメリカ両国を訪問するなど、太平洋問題調査会日本支部の中心メンバーとして、日米間の民間外交に大きく貢献した。
'38設立された国策機関・太平洋協会においても運営の中心となった。国際会議で難しい内容の議論でさえ自身の英語力で通訳を無用とし乗り切るなど、スケールの大きな率直な人柄は周囲の信頼を集めた。
その間'28(S3)衆院議員に当選、与野党勢力伯仲の折から明政会を率いて衆院のキャスティング‐ヴォートを握り注目された。
'30総選挙に落選したが、'36政界に返り咲いてからは立憲民政党に所属し、以後当選4回。
米内内閣の内務政務次官から戦時中は翼賛政治会・大日本政治会の各顧問をつとめ、敗戦直後には日本進歩党結成に参画しその幹事長に就任したが、公職追放。
公職追放解除後の'53から参院議員に当選し1期つとめ、第1次鳩山内閣の厚生大臣(1954.12.10-1955.3.19)に任ぜられた。
その傍ら政治評論・小説など多数著わした。主な著書に、1929『母』、1930『自由人の旅日記』、1931『ナポレオン』、1935『ビスマーク英雄天才史伝』(翻訳)、1937『後藤新平』(編)全4巻、1950『感激の生活』など多数。
米倉清一郎の『鶴見祐輔論』(1929)、北岡寿逸 の『友情の人鶴見祐輔先生』(編・1975) がある。享年88歳。
政治家・満州鉄道初代総裁など多くの役職を務めた伯爵の後藤新平の娘の愛子(同墓)と結婚。 愛子との間に2男2女を儲けた。長女は社会学者の鶴見和子(散骨)、長男は文芸評論家・哲学者の鶴見俊輔(同墓)、次女の章子は法学者の内山尚三に嫁ぐ、次男はサラリーマン働きがいの研究等の著述家の鶴見直輔(1933-1996 同墓)。妻の愛子の姉の子に演出家・作詞家・社会主義運動家の佐野碩と武装共産党時代の指導者の佐野博(1-1-6)がいる。俊輔の妻の横山貞子は英文学者・翻訳家、俊輔と貞子の子で孫の鶴見太郎は歴史学者。
*墓所には二基建ち、右が和型「鶴見家之墓」、左側「鶴見祐輔 / 愛子」の墓。「鶴見家之墓」は右面が墓誌となっており、祐輔の祖父で備中松山藩主の代官を務めた鶴見良輔(友作)。父で明治新政府のもとで紡績所の官営工場所長などを務め殖産興業に貢献した鶴見良憲の刻みもあり同墓に眠る。墓石の裏面が「昭和三十一年四月 鶴見祐輔 建之」と刻む。墓所右側に墓誌があり、祐輔・愛子・直輔・俊輔の名が刻む。鶴見和子は生涯独身であったが紀伊の海に散骨されたため墓誌には刻みがない。
*代々は備中松山藩主の水谷(みずのや)氏の家老、鶴見内蔵助を祖。直系は孫の代で絶えるが、内蔵助の娘の子が鶴見定右衛門良喬として名跡を継ぎ、水谷主水家二代目勝英のときに代官となった。以後、良喬−良峯−良顕−良輔(友作)−良憲と続く。幕末に近い頃、川沿いの黒鳥(くろどり)の地に知行所を移した。鶴見家は良憲の代に黒鳥から出ていくが、一族が跡地に住んだとされる。明治維新後、新政府のもとで殖産興業に貢献した。群馬県高崎市新町「旧新町紡績所」が官営工場であった時の最後の所長を務めた。
*祐輔の姉の敏子の夫は電気工学者の廣田理太郎(14-1-91)、その子は婦人解放運動家・政治家の加藤シズエ。祐輔の弟の鶴見憲は外交官。憲の子で甥にアジア学者・人類学者で『バナナと日本人』『ナマコの眼』を著した鶴見良行。
*出身地を岡山県と記すのが多いが、誕生した時に父の良憲が群馬県の紡績所所長を務めていたことから、群馬県出身という説もある。
鶴見和子 つるみ かずこ
1918.6.10(大正7)〜2006.7.31(平成18)
昭和・平成期の社会学者
東京都出身。鶴見祐輔・愛子の長女。津田英学塾(津田塾大学)卒業後渡米し、1941(S16)ヴァッサー大学哲学科に学ぶ。
太平洋戦争のため研究を中断し翌年帰国。戦後'46弟の鶴見俊輔や丸山真男(18-1-31)らと「思想の科学」を創刊。
40歳を過ぎ再び渡米し、コロンビア大学助教授を務めながら、写真婚でアメリカ・カナダの日本人移民の元に嫁いだ女性たちの生活史を研究し、これにより'66プリンストン大学社会学博士号を取得した。
'69帰国後、上智大学外国語学部教授。国際関係論などを講じ、「近代化批判」をはじめ社会理論の新たな枠組みを提唱した。
上智大学国際関係研究所所長なども歴任。また南方熊楠や柳田国男の研究、地域住民の手による発展を論じた「内発的発展論」などでも知られる。
'79『南方熊楠』で毎日出版文化賞、'95南方熊楠賞、'99朝日賞をそれぞれ受賞した。'89(H1)定年退職。上智大学名誉教授。
'95脳出血で倒れ左半身が不自由になった後も、和服や日舞、短歌といった長年きわめた“道楽”から思想をくみ上げ、歌集や随筆、写真本などの著作30点を世に出した。
また、これまでの著作をまとめた『鶴見和子曼荼羅』(全9巻)、対談をまとめた『鶴見和子 対話まんだら』というシリーズを刊行するなど精力的に活動した。2006(H18)6月に容体が悪化。
病床で「死ぬって面白い体験ね。こんなの初めて。驚いた」とユーモアスに語り、最期の言葉は「サンキュー、ベリーマッチ」であったという。辞世の短歌は「そよそよと 宇治高原の 梅雨晴れの 風に吹かれて 最後の日々を 妹と過ごす」(藤原書店「環」27号所収)は、たぐいまれなる思想家の透徹した心境を伝えている。大腸がんのため逝去。享年88歳。
2006.11.20東京都内で「偲ぶ会」が開かれ、約300人が集まった。会で弟の鶴見俊輔氏が「幼いころ厳しかった母が私を殴り、柱にしばっても、姉が身を挺してかばってくれた」と語り、「姉の一生は80年近い前半生と10年余の後半生に分かれると思う。
前の80年は世のしきたりに従って努力し、後の10年は長い前半生の貯蓄を養分に、存分に表現した」と振り返った。
<物故者事典> <2006.12.5読売新聞朝刊文化面 努力の80年 表現の10年 西田朋子 など>
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