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ひろた りたろう

廣田理太郎

ひろた りたろう

1865(慶応1)〜 1935.9.2(昭和10)

明治・大正・昭和期の電気工学者

埋葬場所: 14区 1種 9側 1番

 広島出身。広島県士族の廣田紋三郎の長男として生れる。廣田家は代々福山藩の勘定役を勤めた。 1886(M19)帝国大学工科大学在学中に和田義睦、田中館愛橘、沢井廉の4人で自転車会を設立。 当時の日本では珍しいオーディナリー型自転車(ダルマ自転車:前輪が大きく後輪が小さい自転車)をお金を出し合い購入した。 翌年卒業し、第一絹紡績会社技師となる。その後、尾小屋鉱山技師に転じ、1894高田商会に入り事務長・監事となる。
 同年、内務省土木課長の近藤虎五郎と欧米視察の帰りに、お土産としてフランスからマンハイム計算尺を持ち帰った。 海外では17世紀に計算尺が発明されていたが、日本にはそろばんがあったため注目されず、このお土産の計算尺が日本に初めてもたらされた計算尺とされる。 これを機に日本製計算尺研究が国内で広がる。日本は湿度が高いために計算精度が悪く、多くの技術者が悪戦苦闘する中、腕利きの目盛り工であった逸見治郎(1878-1953)が竹の皮を写し取って改良し、1909孟宗竹の合板を用いた国産計算尺を完成させた。 以後、日本の計算機・電卓技術発展へとつながっていく。その後は、鉄道協会監事、東京帝国大学工学部講師を務めた。 1919(T8)工学博士の学位を受ける。 享年70歳。
 妻は鶴見祐輔(5-1-12)の姉の敏子(同墓)。娘に外交官の市河彦太郎に嫁いだ嘉代子、女性運動家で政治家の加藤シヅエ(1897-2001)がいる。 姪に社会学者の鶴見和子、甥に哲学者の鶴見俊輔、孫にコーディネーターの加藤タキ。

<昭和物故人名録>
<人事興信録など>


*墓石は和型。正面に「廣田理太郎之墓 / 妻 敏子之墓」と刻む。右面に没年月日と享年。


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