高知市出身。土佐藩士の和田義雄・友子(ともに同墓)の子。帝国大学工科大学卒業。大学時代に歴史に名を残すことを3つ行っている。
ひとつ目は、1884(M17)在京の土佐出身学生らを集めた親睦団体「土佐同志会」の発起人のメンバーとして発足。これは後に、社団法人土佐協会(M33)、土佐寮(T15)、財団法人土佐育英協会(S33)、東京土佐寮の完成(S39)と現在に至るまで、高知県出身者のための県人寮として継承されている。
ふたつ目は、山口鋭之助と二人で大学側に提案し許可され、有志がかぶっていた帽子が、1886(M19)東京大学が工部大学校を統合し、帝国大学令により「東京帝国大学」と改称したことを機に、学生の制服を定めたとき制帽として採用されたことである。頂上が四角であるところから角帽と名がつけられ、明治時代には角帽は帝国大学生の異名であった。
みっつ目は、1886(M19)廣田理太郎(14-1-9-1)、田中館愛橘、沢井廉との4人で「自転車会」を設立し、当時の日本では珍しいオーディナリー型自転車(ダルマ自転車:前輪が大きく後輪が小さい自転車)をお金を出し合い購入した。彼らが日本初であったかは定かではないが、自転車の歴史では必ず名前があがる歴史的なことであった。
1887大学を卒業後、米国留学をし、1888(M21)帰国の際に、オバーマン・ホイール株式会社(マサチューセッツ州チコピーフォールス)が製造した安全型のビクター号(チェーン駆動が付いている自転車)を日本初として持ち帰ったと伝えられている。なお、翌年には福沢桃介(9-1-7-1)も持ち帰っている。
内務省に入省し、優秀かつ清廉潔白な土木技師として活躍。日露戦争のときは測量の仕事で朝鮮に渡る。1909(M42)中央官庁から新潟県に出向し内務部土木課長を務める。この時に、災害で流された信濃川に架かる萬代橋の新設工事を手掛けた。2代目萬代橋は直径約40cm、長さ約15mのスギの丸太で造られた初代の基礎杭をそのまま使用し、橋梁は、橋長430間(約782m)、幅員4間2尺(約7.9m)で、初代とほぼ同じ規模であるが、交通量の増加に合わせ、幅が約60cm広くした。総工費は約126,000円を要した。現在の萬代橋は3代目(S4竣工)で重要文化財に指定されている。理学士、工学博士、正5位。享年83歳。
妻の邦子(S14.12.7没 71歳 同墓)は群馬県佐波郡島村出身で、田島弥平の一人娘。前橋女子高を卒業後、横浜の共立ミッションスクールに進み、そこで西洋風の教育を受けた。米国帰りであった義睦と結婚。キリスト教徒で「婦人は人格的に目覚めなくてはならない」と主張し、社会的に広い視野をもち活動をした。それは自分の子供たちにも注がれ、長女のとみ(19-1-13)は、日本女子大学を卒業し、コロンビア大学大学院、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院で心理学を学びドクター・オブ・フィロソフィーを取得した。母の邦子から日本の婦人のために働いて欲しいと諭され帰国し、九州帝国大学医学部精神科の研究員、助教授となるも、美濃部達吉(25-1-24-1)の「未婚の女性が男子学生に教えるなんてとんでもない」との反対で大学を去り、母校の日本女子大学教授となる。1929(S4)慈恵医大の医師の高良武久と33歳で結婚し、三児を育てながら教職を続け、社会運動にもかかわった。戦後は、参議院議員に当選し戦後初の女性議員となり、'52パリのユネスコ会議からモスクワの経済会議に出席し、帰途北京で太平洋地区平和会議に出席し日中間貿易協定を締結する。鉄のカーテンをくぐった戦後初の日本人として注目を集めた。日本婦人団体連合会副会長として、世界平和、婦人参政権運動、子どもや学校教育の問題など多岐にわたり平和の重要性を訴えた。これら、高良とみの活動の素地は、母の邦子の教えがあり、生涯の師としていたからである。