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こうら とみ

高良とみ

こうら とみ

1896.7.1(明治29)〜 1993.1.17(平成5)

昭和・平成期の婦人運動家、
心理学者、政治家

埋葬場所: 19区 1種 13側

 富山県出身。旧姓は和田。結婚前の筆名は和田富子、結婚後の筆名は高良富子。父は米国留学の経歴を持つ測量技師で、キリスト教徒の母は「婦人は人格的に目覚めなくてはならない」と主張し、社会的に広い視野をもち活動した人だったという。
 1917(T6)日本女子大学卒業後、渡米。コロンビア大学大学院、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院で心理学を学び、飢餓の研究で哲学博士号を取得。日本の婦人の進歩のために働いてほしいと母に諭され、米国の大学の職を辞して帰国し、九州帝国大学医学部精神科の研究員となる。四年ほどして助教授に推薦されるが、美濃部達吉(25-1-24-1)の「未婚の女性が男子学生に教えるなんてとんでもない」との反対で大学を去り、'27(S2)母校の日本女子大学教授となる。大学では科学的思考と生活の合理化を提唱した。
 '29九州帝国大学医学部精神科の研究員時代に知り合い親交を深めていた心理学者の高良武久(同墓)と結婚。後に画家となる長女の高良眞木(同墓)、後に詩人となる次女の高良留美子、拒食症のため18歳で自死した三女の高良美世子を儲ける。三児を育てながら教職を続け、社会運動にもかかわった。三女を身籠っている時にインドに赴きタゴールやガンジーと親交した。また中国の魯迅らとも親交を深める。アジアの視点から反戦、平和を訴え続けたが、'41(S16)大政翼賛会に参加し中央協力会議の代表となり、婦人局の設置を提唱した。
 戦後、'47第1回参議院議員通常選挙に民主党から出馬し当選。'49緑風会に移籍し、参議院議員を二期12年間つとめた。のちに大政翼賛会のことは「生涯最大の汚点」だったと娘の留美子に語ったという。
 '52パリで開かれたユネスコ会議から、日本人として戦後はじめてモスクワ入りし世界経済会議にも出席する。モスクワ滞在中に日本人抑留者に会いたいとソ連側に働きかけ、実際ハバロフスクの第21分所を訪れて日本人抑留者と面会した。また戦時中にソ連亡命をした女優の岡田嘉子(6-1-7-53)の生存を確認し日本のメディアに伝えている。モスクワから帰途に中国も訪ね、宮腰喜助や帆足計とともに第一次日中民間貿易協定を締結させた。当時は冷戦時代であり、共産国のソ連と中国と関わったことで、鉄のカーテンをくぐった初の快挙として注目を浴びた。帰国後開かれた「高良とみ帰国歓迎会」を機に日本婦人団体連合会が結成され、会長に平塚らいてう、副会長にとみが推薦され就任した。翌'53残留日本人の引き揚げのため北京で紅十字代表の李徳全らと交渉し、同.3.23第一回引き揚げ船が3,968人の日本人を乗せて舞鶴に着いた。
 以後、世界平和、婦人参政権運動、子どもや学校教育の問題など多岐に亘る多くの著作を婦人雑誌などに掲載した。また世界の様々な平和会議に出席し、平和の重要性を訴え、「核兵器に善し悪しがないのと同じく戦争にも善し悪しはない」といい、非暴力の闘いは「生命を賭してする」ものと、生涯平和運動家として活動し続けた。自伝『非戦を生きる』(1983)がある。'72勲2等瑞宝章。タゴール会会長も務め翻訳も行った。享年96歳。2002(H14)娘で詩人の高良留美子が編集し「高良とみの生と著作」が刊行された。

<コンサイス日本人名事典>
<日本女性人名辞典>
<新婦人協会の人びと など>


正面 裏面、墓誌

*墓石正面「高良」と刻み、裏面が墓誌となっている。裏面の墓誌は高良先祖代々之墓と刻み、明治17年に亡くなた高良武重夫妻、友益夫妻、両親の善十郎・登美、急逝した兄の淳の長男の義郎と続き、とみ、武久、眞木の俗名と享年、没年月日が刻む。自死した娘の美世子は刻まれていない。キリスト教徒の自死であるため刻みがないと推測するが、登美と義郎の間に空白の一行がある。


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