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こうら まき

高良眞木

こうら まき

1930(昭和5)〜 2011.2.1(平成23)

昭和・平成期の画家、社会運動家

埋葬場所: 19区 1種 13側

 東京都出身。父は心理学者の高良武久、母は婦人運動家の高良とみ(共に同墓)の長女。妹(次女)に詩人の高良留美子。妹(三女)の高良美世子(同墓)は拒食症のため18歳で自死した『誕生を待つ生命』著者。伯父に耐火物技術研究者の高良淳(同墓)、従兄弟(淳の長男)に高良義郎(同墓)。
 東京女子大学を卒業後、渡米して、アメリカ・アラーム大学を卒業。1953(S28)作家の浜田糸衛らとともにコペンハーゲンの世界婦人大会に出席。そのままフランスに滞在し画業に専念する。美術評論家の洲之内徹に見いだされ、絵画作品『土』などがある。
 多忙な母の愛情を求め拒食症を発症し不登校になっていた妹の美世子は、滞仏中の長姉の眞木を慕い帰国を待ちわびていた。しかし、'55.3 美世子は自らの命を絶ってしまう。訃報を聞いた眞木は帰国。'58美世子を著者とし、美世子の手紙、創作を遺稿集として『春の雪 〜高良美世子遺稿〜』を眞木が編集し私家版で出版した。
 浜田糸衛の作の『野に帰ったバラ』『豚と紅玉』『金の環の少年』『あまとんさん』などの絵を担当。2003(H15)渡辺茂男の作の絵本『ふしぎなおはなし』の画を担当した。2010『高良眞木画集』を刊行。この間、1999(H11)妹の高良留美子と父の詩集を編集し『高良武久詩集』を刊行している。
 日中友好神奈川県婦人連絡会会長・神奈川県日中友好協会副会長などを務め、50年に渡って日中友好へ尽力した。肺癌のため神奈川県小田原市の病院で逝去。享年80歳。

<日中友好紙の著者略歴など>


墓所
正面 裏面、墓誌

*墓石正面「髙良」、下側に「KORA」と刻み、右面に「昭和三十一年三月愛児の追慕に建つ 高良武久 とみ」、左面に「髙良美世子 行年一八 一九三七・八・一八 − 一九五五・三・二四 永眠」と刻む。裏面が墓誌となっており「髙良先祖代々之墓」と刻み、明治十七年に亡くなた高良武重夫妻、友益夫妻、両親の善十郎・登美、急逝した武久の兄の淳の長男の義郎と続き、とみ、武久、眞木の俗名と享年、没年月日が刻む。

*墓所左側にも墓誌が二つ建つ。墓石側の墓誌は、武久の兄で耐火物技術研究者の高良淳を先頭に、1歳で亡くなった長女の芳子、妻の多和子、長男ので父と同じ耐火物技術研究者の義郎、義郎の妻の正子、義郎の長男の信郎、義郎の二男の和郎が刻む。その左隣の墓誌には、ピアニストの高良芳枝から始まり、芳枝の夫で物理学者の和武(武久とは従兄にあたる)、101才の大往生の瑞穂、鉄子、道生が刻む。


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