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こうら よしお

高良義郎

こうら よしお

1912(明治45)〜 1960.12.4(昭和35)

昭和期の耐火物技術研究者

埋葬場所: 19区 1種 13側

 福岡県出身。黒崎窯業株式会社(黒崎播磨セラコーポ株式会社)の設立者で取締役技師長を務めた耐火物技術研究者の高良淳・多和子(共に同墓)の長男として生まれる。
 父の義郎より後継ぎとして育てられ、鉱物学者の神津俶祐が在籍している東北帝国大学理学部に父の推薦で入学、鉱物学を学んだ。 1936(S11)卒業後、東京工業大学で近藤清治に師事し窒業の研究に従事した。米国オハイオ大学に留学。帰国後、父が設立した黒崎窯業株式会社に入社。父親を助け、耐火煉瓦研究を行った。
 戦後、わが国産業の再建の一翼を担った耐火煉瓦技術会の重鎮として、永年平炉耐火物専門委員会を主宰し、耐火煉瓦の製造者側と使用者側との間に立ち、委員長として尽力した。 本邦製鋼業の発展に絶大な寄与をした功績は著しい。窒業協会理事も兼職。直接耐火物研究の構想中に病にて急逝。享年48歳。

<「高良義郎君を偲びて」吉木文平>


正面 裏面、墓誌

*墓石正面「高良」と刻み、裏面が墓誌となっている。裏面の墓誌は高良先祖代々之墓と刻み、明治17年に亡くなた高良武重夫妻、友益夫妻、両親の善十郎・登美、義郎、とみ、武久、眞木の俗名と享年、没年月日が刻む。墓所左側に高良淳を先頭とした墓誌もあり、こちらにも義郎は刻まれている。

*同墓には父の淳の弟で心理学者の高良武久、その妻で婦人運動家の高良とみ、武久ととみの長女で画家の高良眞木、三女で自死したが遺稿集で著者となっている高良美世子も眠る。なお、二女は詩人の高良留美子。


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