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おかだ よしこ

岡田嘉子

おかだ よしこ

1902.4.21(明治35)〜 1992.2.10(平成4)

昭和期の女優、アナウンサー

埋葬場所: 6区 1種 7側 53番

 広島県広島市出身。父は新聞記者。オランダ人のクォーター(母方)。父と共に一家は朝鮮釜山、横須賀、東京湯島と転々とし、小学校を8回も転校する。 東京女子美術学校西洋画科を卒業後、1917(T6)父の北門日報主筆になったことを機に北海道小樽へ共に渡り、翌年同社の婦人記者として入社。
 '19父が劇作家の中村吉蔵と縁があり、父に連れられ上京し、中村の内弟子となった。 前年からこの年にかけては、中村が属していた芸術座は、島村抱月の病死、松井須磨子の自殺、解散と激動であり、中村松竹と提携し新芸術座を旗揚げした。 嘉子は有楽座カルメンの端役で初舞台。新芸術座はすぐに解散となり、新文芸協会に身を置く。座員で早稲田大学生であった服部義治との間に男児を儲けるも、結婚を断り、子供は嘉子の弟として岡田籍に入れる。 その後も、劇団の客演をこなし、'21舞台協会帝劇公演での倉田百三(23-1-26-2)著作の「出家とその弟子」の芸妓楓で一躍脚光をあびる。 新劇のスター女優として注目され、'22日活向島と契約。共演した山田隆弥と愛人関係となり、これを妬んだ服部は'25鉄道自殺をした。
 '23舞台協会と日活が提携した「髑髏の舞」で脚光を浴び映画初主演して新派スターとして注目されるも、関東大震災のため日活向島が閉鎖。舞台を続けるも多額の借金を抱え、日活京都撮影所と契約し、前借りで借金を返済。 '25「街の手品師」で高い評価を得、続く「大地は微笑む」もヒットとなり、モダンで妖艶な新しい女優として、この年の映画女優人気投票でトップとなった。その後も「日輪」「彼をめぐる五人の女」など多くの映画に主演した。
 '27(S2)「椿姫」の撮影中、村田監督との不協和音、また愛人関係であった山田には30歳年上のパトロンがいる私生活の悩みも加え心労がたたっていた中、映画の相手役であった竹内良一に相談したところ衝撃的に駆け落ちし失踪、結婚。 これが原因で日活から解雇、映画界から干される。'28〈岡田嘉子一座〉を結成し各地を巡業。'30解散するまで地方興行を行った。 この時期より、有声映画トーキに着目し、自らプロダクションを設立。舞踏や流行小唄を題材に映画を製作した。 日本舞踊にも取り組み、藤間静枝の門下となり、名取となり藤陰嘉子を名乗った。'32日活時代の借金を肩代わりする条件で松竹蒲田と契約し、映画界に復帰。 小津安二郎「また逢う日まで」「東京の女」「東京の宿」に好演。しかし、若手の台頭や使いにくい女優と敬遠され脇役に甘んじることとなり、映画主演が激減したため、松竹傘下の新派演劇である井上正夫一座に参加し、舞台出演が増えた。
 '36演劇道場に参加し左翼演劇新協劇団の演出家の杉本良吉を知り、恋におちる。この時は、竹内とは別居状態であり、杉本にも病身の妻がいた。 日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、出演する映画にも表現活動の統制が行われていた。 杉本は共産主義者であり、またプロレタリア運動に関わり執行猶予の身であり、更には戦争の行く末と兵役にとられることを憂慮し、二人は愛を貫くためソ連への亡命を決意。 '37.12.27上野駅を出発し、北海道を経て、樺太国境を越え、ソ連に入る。これは意外なカップルのセンセーショナルとして各紙新聞に「雪を蹴って越境 夕闇の彼方に姿消ゆ」「ソ連側に通じて計画的潜入か」と恋の逃避行とも政治的陰謀ともうかがえる見出しが躍り、謎の越境と日本中を驚かせた。 しかし、不法入国した二人は'38.1.6に入国3日目にして拘束され、二人は離され、GPU(現KGB)の取り調べを受け、スパイ容疑として独房に収容された。 '39杉本はスパイ容疑として銃殺刑(長年獄中病死とされていた)。嘉子は10年間強制収容所に幽閉され、'47釈放後も日本へ敢えて帰国せず、モスクワでラジオ放送のアナウンサーをしていた日本人と知り合い、モスクワ放送局で日本語アナウンサーとなる。
 '50戦争捕虜から抑留され釈放後もソ連に残留しモスクワ放送局の日本語アナウンサーとなっていた、かつて共演もしたことがある日活俳優の滝口新太郎(同墓)と結婚。 '54ルナチャルスキー演劇大に入学、卒業公演に「女の一生」を演出して成功させるなど演劇者としても活動していた。 '52訪ソした衆議院議員の高良とみが嘉子の生存を確認し、'68日本のテレビ番組でモスクワの赤の広場からの中継に登場するなど、日本で関心が高まる。 当時の東京都知事の美濃部亮吉(25-1-24-1)らの国を挙げての働きかけにより、'72亡くなった夫の滝口の遺骨を抱いて34年ぶりに日本の地を踏む。 羽田空港には多くの報道陣が詰め掛けた。一端ソ連へ戻るも'74再来日し、以後、日本の芸能界に復帰し、劇団民芸の演出・舞台出演を行い、また映画「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」等にも出演した。 '86ソ連でペレストロイカによる改革が始まったことを機に、「北の国で人生の残りを過ごしたい」と語って、国籍のあるソ連へ再び戻った。 日ソ友好大使として尽力。日本には帰国せず、モスクワ市内の自宅にて死去。享年89歳。

<コンサイス日本人名事典>
<往生際の達人>
<人間っておもしろい>
<人物20世紀など>


墓誌

*墓所は正面に小さめな岡田家之墓が建ち、その右側に滝口新太郎と岡田嘉子の自筆が刻む墓石が建ち一緒に眠る。その墓石には「悔いなき命をひとすじに」と刻まれている。

*モスクワ市ドンスコエ葬儀場で茶毘に付された遺骨は、モスクワ日本人会の手で故国に帰り、多磨霊園に埋葬された。

*嘉子と恋の逃避行をした杉本良吉は、亡命をした翌年'39.10.23獄中病死と伝えられてきた。 「日本共産党の五十年」によると、二人の越境は杉本のコミンテルン(共産主義インターナショナル)との連絡のためだったという。 ところが、'89(H1)モスクワ市のワレンチン・リャボフ検事補佐官は、杉本良吉が病死ではなく、身に覚えのないスパイ罪で銃殺刑を受けたことを明らかにした。 詳細は'39.9.17ソ連邦最高裁軍事法廷で銃殺刑の判決を受け、1〜2日後に処刑された。 杉本が「自分は日本の参謀本部が送り込んだスパイだ」という虚偽の供述をさせられた背景には、連日の拷問や脅迫があった。 それに加え、もしスパイであることを認めれば「ソ連に残って働けるようにする」という当局側の甘言を信じてしまった結果だ、と付け加えている。

墓所

*墓石が以前は「岡田家之墓」であったが、現在は「山本家之墓」に変わっている。

<山口様より写真提供>


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