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くらた ひゃくぞう

倉田百三

くらた ひゃくぞう

1891.2.23(明治24)〜 1943.2.12(昭和18)

大正・昭和期の劇作家、評論家

埋葬場所: 23区 1種 26側 2番

 広島県比婆郡庄原村(庄原市本町)出身。呉服商の倉田吾作、ルイの長男として生まれる。姉4人、妹2人の唯一の男児。甥に日本基督教団牧師で随筆家の宗藤尚三がいる。
 第一高等学校在学中に西田幾多郎『善の研究』に感銘を受ける。妹の艶子の同級であった逸見久子と恋愛関係となり、1913(T2)恋愛の影響で落第、更に久子から絶縁状が届き、加えて肺結核が判明する。一高の文芸部機関紙に寄稿した論文『愛と認識との出発』などで不適切な単語が含まれていたことで鉄拳制裁を受け、肺結核も発症していたため寄宿寮を脱出し、一高を中退した。
 '14キリスト教に興味を持ち、日本アライアンス庄原教会に通い始めるも、結核性痔瘻を併発して広島病院に入院。翌年1月、庄原教会の牧師メーベル・フランシスの紹介で、広島の伝染病院に婦長として赴任していた神田晴子と出会う。3月に広島病院を退院。11月に京都の西田天香の教えに共感し、一灯園に妹の艶子と共に入り、二人で生活をしながら深い信仰生活を送る。
 '16病状が悪化したため一灯園での生活から離れ一軒家を借りて療養。実家に戻っていた晴子と共棲を始め、日本女子大学校を卒業した妹の艶子も同居。三姉と四姉が相次いで亡くなり、親族は妹の艶子を四姉の夫の後妻にしようとしたが拒否したため、百三が四姉の生まれたばかりの娘を養女として引き取る。同じ頃、晴子は百三との子を身籠る。当初は両親の反対があったが、'17.3.24 長男の倉田地三(同墓)が誕生。
 この時期に、鎌倉時代の浄土真宗 開祖 親鸞 とその弟子 唯円 を中心に人間の愛欲や罪などを描いた戯曲『出家とその弟子』を書き上げた。千家元麿や犬養健らによって「白樺」の衛星誌として、'16.10 創刊された同人誌「生命の川」の同人となり、『出家とその弟子』は、同.11から翌.4 にかけて第四幕第一場までが掲載された。子が生まれた百三は経済的自立を望み、'18『出家とその弟子』6幕13場に新たに「序曲」を加えた形で、岩波書店から自費出版として刊行。初版800部の出版に必要な500円は父に頼み込んで用立てた。『出家とその弟子』は歎異抄を下敷きにしているがキリスト教の影響を強く受けた作品で、青年たちに熱狂的に支持され大ベストセラーとなり、世界各国で翻訳されフランスの作家ロマン・ロランが絶賛したことで有名である。
 この間、'18夏、武者小路実篤が起こした理想主義的な芸術家集団「新しき村」の熱烈な支援者となる。九州帝国大学医学部付属病院で結核療養と助骨カリエス手術のため福岡市今川の金龍寺境内の貝原益軒記念堂に仮寓。ここが「新しい村」の福岡支部とされた。洋画家の児島善三郎や俳優の薄田研二(本名は高山徳右衛門)らと出会う。'19兵庫県明石の無量光寺に移転し病の中で思索生活を続けた。'20絶望的な人間関係を描いた『歌はぬ人』(「俊寛」)、'21煩悩を断ち切る宗教劇『布施太子の入山』など宗教的な愛や信念を描いた人道主義的な作品を書き、また書き溜めていた評論や感想をまとめた随筆『愛と認識との出発』を「白樺」誌上で発表・刊行。旧制高校生の必読書となるほど当時の青年に大きな感銘を与え、大正宗教文学流行の機縁をつくった。
 '20.10 回復した百三は妻の晴子と地三を残し単身上京(晴子とは内縁の妻状態であったが、'20.7に籍を同じとし、わずか2カ月あまりで離縁し、倉田が単身上京したという説もある)し、同.12妻子を東京に呼び寄せた。この頃、伊吹山直子と知り合う。直子は父の反対を押し切り家出して倉田百三のもとへ奔る。さらに、元恋人で会った逸見久子も嫁いだ家を出て百三と合流。百三は、晴子を含めた女性たちと特別な関係になることを避け、あくまでも弟子として皆が仲良くあることを望んだが、「新潮」や「国民新聞」はそれを“多妻主義” と批判。百三は『出家とその弟子』や『布施太子の入山』といった作品で宗教的な見地から恋愛問題に取り組み発表していたため、当人が女性関係問題をマスコミに取り上げられたことで、多くの読者がギャップを感じ幻滅したという。
 世間からの非難があり晴子と別居することになる。'21福岡仮寓中で出会った俳優の薄田研二が晴子と地三を慰めるために上京し、晴子と恋仲になった。協議の末、百三と晴子は離婚し、百三の同意の下で薄田と晴子は結婚した。薄田と晴子は結婚後は福岡に戻り、具象舞台劇協会という劇団を組織し百三の「出家とその弟子」などを上演した。二人の間には後に女優となる薄田つま子、後に俳優となる高山象三が誕生した。なお、百三は地三を引き取り、1924伊吹山直子を後妻として迎えたので、地三は直子に育てられた。
 '22『父の心配』『静思』『処女の死』を発表。'23アララギに入会。『転身』を発表。'24『超克』、'25『赤い霊魂』『標立つ道』『希臘主義と基督教主義との調和の道』を発表するなど社会的視野の広がりを示した。'25頃より強迫神経症を患い、耳鳴りにも悩まされる。'26「生活者」を創刊、求道的青年の知的連帯の場となる。『一夫一婦か自由恋愛か』『桜児』を発表。'27(S2)森田正馬に直接治療を受けるべく森田診療所を訪ね、森田や宇佐玄雄の治療を受ける。'30『絶対的生活』『恥以上』、'31『冬鶯 創作集』、'32『神経質者の天国 治らずに治つた私の体験』『生活と一枚の宗教』などの論集を刊行し、情欲に身を焼く自己を対極として、キリスト教、仏教、神道にも及ぶ求道的遍歴に思想を深め、独自の地歩を固めた。
 '33親鸞研究を通して日本主義に傾き、日本主義団体の国民協会結成に携わり、機関紙の編集長となる。'36森田療法の甲斐もあって、『信仰読本親鸞聖人』を発表すると、強迫性障害もこの小説の中に昇華されるように霧散した。'38『大地にしく乳房』『祖国への愛と認識』、'39『日本主義文化宣言』、'40『親鸞』『法の娘』『光り合ふいのち』、'41『共に生きる倫理』、'42『東洋平和の恋』と大乗的生命主義を説き、ファシズム正当化の理論づけを果たした。また、'38書簡集『青春の息の痕』や、'39農本主義青年を主人公とした『浄らかな虹』などの小説もある。
 '43.2.12肋骨カリエスのため東京・大森の馬込文学圏の自宅で逝去。享年51歳。没後、'44『その前夜』『大化の改新』、'46『倉田百三選集』全10巻が出され、別巻『倉田百三評伝を』亀井勝一郎(20-1-22-13)が著した。

<コンサイス日本人名事典>
<学習人名辞典>
<講談社日本人名大辞典>
<日本大百科全書>
<ブリタニカ国際大百科事典など>


墓所 碑

*倉田家墓所には和型墓石が三基建つ。正面左「倉田百三之墓」、前面に「男爵 井田磐楠 書」と刻む。裏面「昭和十九年二月十二日建之 嗣子 倉田地三」と刻み、右面「戒名は戚戚院釋西行水樂居士 昭和十八年二月十二日帰出 享年五十三」と刻む。正面右「倉田家之墓」、裏面「平成十八年三月吉日 倉田芳江 建之」と刻む。倉田芳江は地三の妻。墓所左側に墓誌があり、倉田百三、後妻の倉田直子(梅窓芳月信女・S53.1.14没)、前妻の晴子との子で俳優の倉田地三の三名の戒名と生没年月日と行年が刻む(地三は俗名のみ)。墓所右側に『出家とその弟子』より採った「筆折れて いのち絶えなむ 時さへや いやさか言は むすめらみことに 百三 齋藤瀏 書」と刻む歌碑が建つ。墓所入口右手側に「ママ之墓 神田はる」の墓石が建つ。裏面「昭和四十三年四月 倉田地三 建之」、右面「雲晴院釋尼芳絹信女」俗名「高山晴子」、没年月日と行年が刻む。晴子は百三の前妻で地三の実母。

*広島県庄原市西本町の共同墓地内の倉田家墓所にも分骨されている。墓所には庄原市教育委員会が「倉田百三ここにねむる」(H29.9)という説明板が建つ。

*故郷の広島県庄原市田園文化センター内に「倉田百三文学館」(平成元年オープン)がある。また市内には「倉田百三生誕之地」石柱建ち、広島市南区丹那街に「倉田百三文学碑」が建つ。加えて、グランドホテルの傍は昭和六十年に開設された「百三ひろば」があり、「青春は短い 宝石の如くにしてそれを惜しめ」(平井信元揮毫)の碑と生誕百年記念の胸像(吉田正浪制作)が建つ。百三が51歳の時(S17・没する直前)に母校である庄原小学校(当時は国民学校)の校歌を作詞している。

*薄田研二の墓は妙蓮寺(東京都品川区南品川)。


【百三の妹の倉田艶子と、マント事件】
 百三が結婚前に最も行動を共にした妹の倉田艶子(くらた つやこ:1896.6.20-1988.4.6)は、広島出身で日本女子大学卒業。1922(T11)『大雀命』『かねごと』2編を収めた戯曲『芸楽道場叢書』を出版し、その序文を百三が書いている。百三主宰の「生活者」にも参加。筆名を面足千木(おもたる ちぎ)として『青久清伎所』などの小説も書く。主な作品に『青人草』『鶴草紙』。百三没後はその思い出の作品『兄百三』『挽歌』などを手掛けた。結婚して小西姓となる。
 蛇足であるが、1912日本女子大学に通っていた艶子は後に日本共産党幹部となる第一高等学校に通っていた佐野文夫と付き合っていた。佐野は一高のシンボルであるマントを着てデートをしたいと思ったが金銭苦で自分のマントを質に入れてなかったため、他人のマントを盗んだ。二日ほどして佐野の友人の同級生の菊池寛(14-1-6-1)がお互い金に窮して、一緒にそのマントを質に入れたところ、盗難届が出されており、その夜、舎監に二人は呼び出された。しかし佐野は不在で菊池のみの状況で、菊池は親友を守るために自分が盗んだことにして罪をかぶった。この「マント事件」をモデルに菊池は後に『青木の出京』に描いている。結果的に、菊池は親分肌気質であり佐野を守るために抗弁しなかった。同級生の長崎太郎が救済を求め当時校長であった新渡戸稲造(7-1-5-11)と掛け合い善処の約束を取り付けたが、新渡戸が退任したため後任の校長にも取りつくも、菊池は頑として自らの罪としたため退学した。


ママの墓

【百三の前妻で地三の実母の晴子の人生】
 神田はる(神田晴子)、倉田晴子、高山晴子は同一人物である。旧姓が神田。倉田百三の前妻であり、倉田地三の実母であり、薄田研二(本名は高山徳右衛門)との再婚で高山姓となった。薄田との子に薄田つま子(後に女優)、高山象三(後に俳優)がいる。高山象三は広島での劇団俳優座巡業中にて原爆で亡くなる。戦後、薄田が若い女優の内田礼子に走り離婚。晩年は幼くして離れ離れになっていた地三と暮らし、没後は百三や後妻の直子、実子の地三と同じ墓所で眠る。
 晴子は広島出身で看護師、伝染病院の婦長を務めていた時に、'15.1結核性痔瘻を併発して広島病院に入院していた倉田百三と、庄原教会の牧師メーベル・フランシスの紹介で出会う。二人はこの時キリスト教を信仰していた。地三を儲け育児をしながら百三の看病をし支え続けた。『愛と認識の出発』に登場する「絹子」のモデル。晴子の戒名に「絹」の文字も入る。
 '20回復した百三が単身上京し、年末に晴子と地三が呼び出され上京(内縁の妻状態であったが、'20.7に籍を同じとし、わずか2カ月あまりで離縁し、倉田が単身上京したという説もある)。'21百三は元恋人(久子)、新恋人(直子・後に後妻)、妻の晴子と同居したことで、マスコミから多妻主義だと非難され、創作と現実のギャップに読者を落胆させた。何も悪くない晴子は別居となる。心配して上京してきた薄田研二と恋仲になり、百三も認めたうえで協議離婚し薄田と再婚をする流れとなる。


倉田家の墓

【百三の後妻の直子の人生】
 倉田直子は百三の後妻。旧姓は伊吹山。父は日本郵船の上海支店長を勤め上海港の開発・整備に尽力した伊吹山徳司。兄弟に文学者の伊吹山次郎、土木工学者の伊吹山四郎がいる。
 上京してきた倉田百三が大森でサロンを開いており参加していた。最初は百三から近寄り、その時は断っている。しかし、直子はまもなく家出をして百三宅に転がり込んだ。同じ時期に同じように百三の元恋人の久子も嫁ぎ先から出て転がり込み、百三の妻の晴子も東京に呼び寄せたことで不思議な同居が始まり、多妻主義だと世間を賑わせた。
 結果、百三は晴子と離婚をし、後に直子と再婚。前妻との子の地三は直子が育てた。1924(T13)伊吹山直子名義で『桃華娘』を刊行している。


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