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ふくざわ ももすけ / とうすけ

福沢桃介

ふくざわ ももすけ / とうすけ

1868.8.13(慶應4.6.25)〜 1938.2.15(昭和13)

明治・大正期の実業家(電力王)、投資家、政治家

埋葬場所: 9区 1種 7側 1番

 武蔵国横見郡荒子村(埼玉県比企郡吉見町荒子)出身。岩崎紀一・サダの次男として生まれる(男女3人の6人兄弟)。岩崎家は伝承によると清和源氏の末裔で、武田勝頼に仕え後に甲斐国から武蔵国へ土着したとされる。父の実家の矢部家は名主の家であったが次男であり岩崎家に婿養子。兄の岩崎育太郎(長男)は洋品商を営み、育太郎の子(甥)は洋画家の岩崎勝平。弟の岩崎紀博は書道家。妹の杉浦翠子(岩崎翠)は歌人であり洋画家の杉浦非水に嫁いだ。
 父が提灯屋を廃業して第八十五国立銀行員に勤めるようになり家計が安定したことで、小学校に通う傍ら川越の漢学塾でも学ぶ。川越中学校を経て、政治家を志し上京し、1883(M16)福沢諭吉が開いた慶應義塾に入学した。桃介は足が速く、慶應義塾での運動会で活躍。その様子を見ていた福沢諭吉夫人の錦の目に留まり、長女の里の賛同を得、諭吉も乗気になり、諭吉の次女の房(フサ)の結婚相手に抜擢された。福沢家側は卒業後の留学(洋行)費用を工面する条件で婿養子に誘い、桃介側も承諾して養子入りが決定。1886.12.17桃介と房は結婚を前提に福沢家への養子入りをして、岩崎桃介は「福沢桃介」となった。姓は正しくは「福澤」と記す。
 1887.2.2横浜港よりアメリカへ出発し、義兄の福沢一太郎が留学中のニューヨークに翌月到着。語学勉強及び実業学校で学び、次いでボストン近郊の語学学校に通う。1888よりフィラデルフィアに移りペンシルバニア鉄道に事務見習いで入る。1889.11.15大学に進学はせず予定を早めて帰国。帰国した翌月に房と結婚し、同.12.23戸籍上の分家となる。同.12.31諭吉が設立に助力した北海道炭礦鉄道に入社。
 しばらく東京の鉄道の事務見習いをした後、1890.4北海道札幌市へ赴任し運輸に従事したが、妻の妊娠出産(長男の駒吉)のため夫婦は10月に東京に戻った。北海道炭礦鉄道はシンガポール等への石炭輸出の事業拡大をする途上であったため、英語も堪能な桃介をそのまま東京支店に転任させ石炭販売担当主任にした。1893.4北海道炭礦鉄道の初代社長の堀甚に代わり着任した高島嘉右衛門は経営に高島易断を持ち込み、易の結果で社員の免職を判断に使い、桃介は免職と出たため突然クビとなる。翌月、井上角五郎が理事として入り組織を立て直し、桃介も再入社させられ井上の下で重役付として社内改革に従事する立場で復職した。
 しかし、1894結核を患う。諭吉が関与していた北里柴三郎の「養生園」に入院し静養。病床で何かできることはないかと考え株式投資を思いつく。倹約家であったことで当時3000円の貯金があり、ここから1000円を割き資本として投資を始めた。1年ほど経ち健康を回復し仕事復帰するにあたり、大阪鉄道株を清算してみたところ約10万円の利益が手元に残った。勢いづき株式投資を続けたが、翌年相場が春には下落し、秋には暴落して利益の半分を失う。
 北海道炭礦鉄道に戻り、井上角五郎に随行して上海や香港へ出向くなど貿易面に従事。一方で親戚の中上川彦次郎の王子製紙の取締役なども務めたが長続きせず。1899健康が完全に回復したこともあり独立の機運が高まり、貿易商「丸三商会」を創立し独立した。北海道から鉄道の枕木を中国北部に輸出をする計画で事業を行うが経営は上手くいかず、取引先が離れ、融資も断られ、諭吉にも怒られ、病気も再発し神戸出張中に倒れ入院。諭吉に怒られたことが相当堪え、桃介は福沢家から離反することさえも考えたという。帰京し静養をしているときに、1901.2.3諭吉が死去。体力が回復した5か月後に、井上角五郎に誘われ北海道炭礦鉄道に重役付として復帰することになった。
 仕事を従事する傍ら、株式投資に再び乗り出し、日露戦争の株価高騰からの戦後の暴落時に売って売って売りぬいて、現金で200万円を儲けた。当時は米一升14銭の時代である。これにより成金の一人に数えられるまでの巨利を得た。なお富を得てからは以後株式投資を一切辞めた。また得たお金をもって一度失敗した実業活動に再び乗り出すため、'06.10北海道炭礦鉄道を辞した。
 '07.1.26日清紡績株式会社を創立し取締役専務に選任される。同社1万株をもつ筆頭株主であったが、工場操業以降より持ち株の大半を手放し、'10.4.2臨時株主総会にて辞任した。同時期、根津嘉一郎(15-1-2-10)、馬越恭平とともに肥料会社の設立に参加し、'06.10帝国肥料株式会社を設立('08大日本人造肥料に合併)。根津とはカブトビールを共同買収したが根津と意見が合わず撤退。瀬戸鉱山株式会社を設立し岡山県にて鉱山経営を行うが、8年間採掘を試み上手くいかず藤田組に売却した。また北海道の農場を譲り受け農場経営も行うなど手広く事業を行ったが定着はしなかった。
 '06.11.4広滝水力電気株式会社が設立され、筑後川水系城原川での水力発電計画の際、福岡の太田清蔵から株の引き受けを依頼され、6000株のうち1500株を持つ。'08.10設備が完成し佐賀市、後に久留米市などへの供給が始まる。更に同じころ、福岡市内の路面電車施設特許を得た松永安左エ門の懇願で2000株を引き受けた。これにより、'09.8.31福博電気軌道株式会社が発足され、取締役社長に就任、'10.3開業。'10.9.5川上川(嘉瀬川)の開発を目的に九州電気株式会社が発足し、広滝水力電気を吸収する形で初代社長に就任。翌年福博電気軌道が博多電灯に合併され博多電灯軌道となり取締役に退いた。'12.6九州電気と博多電灯軌道の合併し九州電灯鉄道株式会社となり相談役に留まった。
 九州地域の事業を手掛ける一方で、'07ヨーロッパの水力発電所から長距離送電の成功の報を知り、これからは電気事業が確実に利益の見込める事業となることを確信、積極的に進出を目指すため全国の調査を水面下で始め、水力発電に有利な場所として名古屋に注目。'09名古屋電灯の5000株を買収し、翌年には1万株を持ち筆頭株主となり顧問とし相談役に就任した。'10常務取締役に互選される。木曽川開発を手掛け岐阜県に八百津発電所を建設中であった競合会社の名古屋電力を吸収合併することに成功。社長に名古屋市長だった加藤重三郎を招致して就任させた。名古屋電灯を加藤に任せた後は、島根の浜田電気、千葉の野田電気、四国水力電気、佐世保電気など相次いで発足させ社長に就いた。
 更にこの時期、ガス事業にも注目。'10.4.29日本瓦斯株式会社を設立し社長に就任。専務は義弟の福沢大四郎。本社を東京に置いたが、地方都市へのガス事業を展開し、北海道・新潟・和歌山・姫路・下関・博多・大牟田・熊本・鹿児島の各地の瓦斯の株式を保有。'13(T2)日本瓦斯の主導によって同社が株式を保有する西日本各地方ガス会社10社を合併し、新たに西部合同瓦斯株式会社を発足し社長に就任。翌年には辞任し松永安左エ門と引き継いでいる。
 電気やガスなど庶民のインフラ事業の成功に伴い、本来の夢であった政治家に挑戦するため、'12第11回衆議院総選挙に立憲政友会公認で特に縁深くない千葉県郡部から出馬。トップ当選を果たし代議士となる。当時は西園寺内閣と桂内閣が交互に政権を担った時代であり、憲政擁護運動に盛り上がっていた。交詢社のメンバーとして運動に参加し、尾崎行雄らと政友会を離党、小会派の政友倶楽部を組織しそれに加わった。「日本郵船には政府から莫大な補助金がつぎこまれている。 政府高官が多額の収賄を受けた結果である」と爆弾演説をするなどし注目を浴びるも、政友倶楽部の組織内はバラバラとなり、孤立したため無所属となった。政治家に向いていないと悟り、立候補の話ももらうが出馬せず、'14.12大熊内閣での解散をもって1期のみで政治の世界から離れた。
 政治家の任期中、'13名古屋電灯の業績が悪化し呼び戻され、加藤を社長継続させる形で自身は常務取締役にてサポートした。しかし加藤が疑獄事件で起訴され辞任したことにより、'14.12後任の社長として選任される。政治家としても再出馬をせず実業界に完全復帰した。保守的な経営方針を一変させ積極的な需要創出に取り組み、料金引き下げによる販路拡大を目指す。自らが電気製鋼所など出資者ともなり名古屋周辺に新たな産業を起業し需要創出活動を行う。'14名古屋電灯は電気製鋼事業を兼営。'16設置していた製鋼部を独立させ株式会社電気製鋼所を発足、'17.9より社長を兼務した。木曽川開発も推し進め、'18.9.8木曽電機製鉄株式会社を発足させ社長に就任。これらの流れで配電専業となった名古屋電灯は、'20一宮電気や岐阜電気など愛知と岐阜の6社を合併させ、'21.8資本金4848万円の電力会社に発展させた。
 その後、名古屋電灯は奈良県の関西水力電気との合併を決定させ、大阪進出を推し進め、大阪送電を立ち上げる。'19.11.8木曽電気興業と京阪電気鉄道と提携、初代社長となった。関西地方の送電を目指す電力会社は、桃介の大阪電送の他、宇治川電気の日本電力と山本条太郎(11-1-1-3)の日本水力。そこで、'20大阪送電、日本水力、木曽電気興業の3社の合併を決定させ、'21.2大同電力株式会社を発足し初代社長となった。'21木曽電気興業の母体である名古屋電灯と関西水力電気との合併も成立させ関西電気株式会社を発足。政治と利権の絡みで桃介は退陣し、関西電気は九州電灯鉄道の社長の伊丹弥太郎、副社長に松永安左エ門が就任したことで、翌年、九州電灯鉄道とも合併し、関西電気は中部と九州を供給区とする電力会社・東邦電力株式会社へと発展した。
 桃介が社長を務める大同電力は木曽川開発を進展させ、6か所の発電所を設置し、'22.7より関西地方への送電を開始。同時期、日本で初めての本格的ダム式発電所となる大井発電所(大井ダム)の建設に着手した。'23.9.1ダム建設中に関東大震災が発生し金融逼迫が生じ資金調達が困難になったが、'24アメリカのニューヨークに赴き、ディロン・リード商会から外債発行に成功。渡米中に水力開発の学識経験等を称えユニオン大学から理学博士が贈られる。'23.12外債のお陰で木曽から大阪までの200キロを超える長距離送電を完成させた。'24関西地方の大手電力会社の宇治川電気と供給契約を締結にも成功。当時日本最大の発電所「大井発電所」を完成させた。
 '26.4大倉喜八郎の退任に伴い帝国劇場株式会社の会長にも就任。義兄の福沢捨次郎(2-1-12-5)が同社設立(1907)の発起人であった関係で株主になっていたためである。同.6 脳貧血で倒れる。二か月後に復帰するも、'27.7(S2)腎臓摘出手術を受けた。'28.3帝国劇場の会長職を辞任し、同.6.6実業界からも引退を表明。これにより大同電気他、各役職から身を引いた。
 鉄道を振り出しに、紡績・肥料・ビール・鉱山・農場・セメント・劇場・製鋼・ガス・電力と多くの事業に従事し数多くの社長を務め、電力会社重役だけでも14の会社で社長を担い「電気王」「電力王」とまで称された。一方で、事業転換の頻繁な人物が故「尻の据わらぬ人」「売り逃げの桃介」とも呼ばれた。福沢諭吉と成金の力で成り上がり多くの事業を展開し『富の成功』『桃介式』(共に1911)を刊行するも、強引すぎるやり方で地元の財界人と折り合いが悪くぶつかるケースも多かったため評価は賛否ある。'13自著『桃介は斯くの如し』がある。著書は他にも『予の致富術』(1916)、『貯蓄と投資』(岡本学と共著・1917)、『金本になる工夫』(1917)、『貧富一新』(1919)、『桃介夜話』(1931)など多数。'16勲4等瑞宝章、'28勲3等旭日中綬章。'32家督を長男の駒吉に譲り妻と隠居。'38東京渋谷の自宅にて脳塞栓で逝去。享年69歳。築地本願寺で葬儀が行われた。
 桃介没後、'38「電力管理法」が成立し、翌年より国策会社日本発送電が発足。これにより、'39大同電気は合流し解散。'42東邦電力(名古屋電灯)も配電統制令により吸収され姿を消すことになった。大西理平 編纂『福澤桃介翁伝』(1939)、宮寺敏雄 著『財界の鬼才 福澤桃介の生涯』(1952)、矢田弥八 著『激流の人 電力王福澤桃介の生涯』(1968)、堀和久 著『電力王福沢桃介』(1984)などの伝記も刊行された。

<コンサイス日本人名事典>
<「福沢桃介翁伝」大西理平 1939>
<起業家123人>
<「歴史人物 意外なウラ話」高野澄>
<様々な人名事典など>


墓所

*墓石は和型「福澤桃介之墓」。裏面「大乗院釋蘇水桃介居士 昭和十三年二月十五日歿」と刻み、右面に「大覚院釋妙房雪杳大姉 桃介 室 フサ 明治三年七月二十二日生 昭和二十九年二月十八日歿 享年八十五」と刻む。

福澤駒吉 / 室 八重 墓

*桃介墓石の左にやや小さめな和型「福澤駒吉 / 室 八重 墓」。右面「明治二十四年一月五日生 昭和二十年三月十八日永眠 顕誠院釋浄徳永俊居士 父 福澤桃介 母 福澤フサ 長男」と刻み、左面「明治二十九年三月二十五日生 昭和五十六年一月十日永眠 エリザベス八重 父 福澤一太郎 母 福澤糸 次女」と刻む。

福澤辰三家墓

*墓所左手側に和型「福澤辰三家墓」。左面十字架の刻みの下に「乗願院釋誠貫辰三居士 父 福澤桃介 母 フサ 次男 明治二十五年三月一日 昭和二十九年十二月六日歿」と刻み、右面「浄貞院釋妙鏡春江大姉 俗名 春江 福澤辰三室 明治三十五年四月十五日生 昭和二十七年四月十一日歿 行年 五十一歳」と刻む。裏面「昭和三十一年十二月 妻 福澤春江 長男 福澤覚正」と刻む。なお、多くの文献では辰三の妻は嵯峨浦次郎の娘の「志乃」と書かれているものが多いが、墓石には、辰三の妻は「春江」と刻み、「志乃」の刻みはどこにもない。

女神を祀った墓石

*墓所入口右手に台座「福澤」と刻み上に女神を祀った墓石、右側に墓誌があり、「マーガレット・マリア 昌 1913.1.21-2007.7.9」「司祭 マルコ 道夫 1928.4.30-2014.10.21」と刻む。福澤道夫は聖パウロ教会・東京教区司祭をつとめた(1999.3.31付で定年退職司祭)。


【福澤桃介と川上貞奴の関係】
 川上貞奴(かわかみ さだやっこ:1871-1946)は旧姓は小山貞。本名は川上貞。7歳の時に芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となる。伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名し芸妓としてお座敷に上がる。
 1885頃、馬術をしていた貞が野犬に襲われるのを、学生であった桃介が制したことで2人は恋仲になる。その後、桃介は福沢諭吉ら一族に見初められ諭吉の次女の房の婿養子に入ることとなり、桃介と貞との恋愛関係は終わる。
 その後の貞は、日舞の演芸に秀、才色兼備の誉れが高く、政界にファンを持ち、名実共に日本一の芸妓となる。1894(M27)自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚。これを機に新派女優に転身。川上音二郎一座のアメリカやロンドン、パリなど巡演に同行し、キモノ風の「ヤッコドレス」を着て欧米中で人気を博す。後に帝国女優養成所を創立した。'11音二郎が死去。引退興行を行い日本の近代女優第一号としての活動から引退した。
 '12桃介は衆議院議員選挙に当選し代議士となる。政界にファンを多く持っていた貞と再会(27年前後ぶり・桃介は44歳、貞奴は41歳)。貞は夫を亡くした未亡人の身であった。悲恋の相手と再び恋に落ちる。2人は隠すことなく並んで公の場に姿を現し、貞は桃介の事業面でも実生活面でも支える仲となった。'20頃より名古屋市内に「二葉御殿」と呼ばれた邸宅に同居を始め、そこは政財界の著名人のサロンとなった。貞は桃介が亡くなるまで添い遂げた。
 2人のロマンスは、1985NHK大河ドラマ「春の波涛」の名でドラマ化された。なお貞の墓は岐阜県各務原市鵜沼の貞が私財を投じて建立(1933)した貞照寺にある。当初は「金剛山桃光院貞照寺」の名称であり、桃光院の桃は桃介の桃である。


*福沢諭吉は三田の裏にある有名な真宗の寺院「善福寺」で葬儀が行なわれた。よって善福寺に埋葬するはずであったが、麻布区内は土葬が許可されないということで、当時市外であった大崎村の本願寺(いまは常光寺)に埋葬された。1977(S52)最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際、諭吉の遺体が腐敗せずミイラ化していたため、学術解剖や遺体保存の声があがったが、遺族の意向により荼毘にふされた

<「世紀をつらぬく福澤諭吉」管理人梶原様より>


*福沢家の菩提寺は諭吉が眠る善福寺である。多磨霊園には諭吉の長男の福沢一太郎の墓所(当時:9区1種7側12番:1992改葬)、諭吉の四男の福沢大四郎(当時:22区1種50側6番:2004改葬)があったが、現在は善福寺の山廟に合祀された。なお諭吉の二男である福沢捨次郎の墓所(2区1種12側5番)と婿養子の福沢桃介の墓所は多磨霊園にある。


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