福澤諭吉の四男として東京に生れる。1904(M37)慶応義塾政治科を卒業し、ハーバード大学大学院に学ぶ。'08鐘紡から日本製鋼所に入り、対英通信事務主任兼重役付秘書となる。その後、'10日本瓦斯専務、千代田火災監査役、明正社・日本加工製紙各社長を歴任。
'28(S3)交詢社常議員に選任され時事新報・昭和電力・相模鉄道各取締役、豊国セメント監査役、国際工業代表を経て'31慶応義塾評議員に挙げられ、'50内山商事社長のち同取締役、ドツヂェンドセイモール社顧問を兼ねる。
<昭和人名辞典(監) (大衆人事録)> <人事興信録> <朝日新聞 1960.9.17朝刊> <MATHU様より情報提供>
*多磨霊園には福澤諭吉の長男である福澤一太郎の墓所が9区1種7側12番にあったが、1992年に多磨霊園から善福寺の山廟に合祀されたらしいです。
(福澤諭吉のHPを運営している梶原賢一郎氏に頼み福澤記念館の西澤氏による福澤家への公式の問い合わせによる情報)福澤家血縁一族はここに合祀されるとのことらしく、大四郎の長男の福澤進太郎(フランス文学者)、その妻の福澤アクリヴィ(ソプラノ歌手)、進太郎の長男の福澤幸雄(レーサー)も、墓誌に刻まれていないところを見ると善福寺の山廟に合祀されたのであろうか?
なお、墓誌には大四郎と妻の益子、戦死した三男の洋三のみしか刻まれていない。ただし、多磨霊園は管理料を払う後継者がいない場合、墓所は撤去される。長年、進太郎氏が継承していたが、亡くなった今ではわからない。
* なお、福澤諭吉の二男である福澤捨次郎の墓所は2区1種12側5番。養子の福沢桃介は9区1種7側1番にある。
*福澤一太郎氏の一族(3人のお孫さん)が遺伝性のご病気のため(網膜色素変性症)に子孫を残さないことに徹しているとのことである。
そのため1992年に多磨霊園から善福寺の山廟に合祀されているとのことだ。福澤家は、諭吉と妻を除いてすべて合祀されているらしい。
そのため、捨次郎、大四郎の一族の墓所も将来的に多磨霊園から姿を消す可能性がある。
<福澤記念館の西澤氏による福澤家への公式の問い合わせによります。>
<『世紀を貫く福澤諭吉』HP管理人である梶原氏から情報提供>
福澤進太郎(ふくざわ しんたろう)
1912.2.6(M45)〜1995.2.13(H7)
昭和期のフランス文学者・慶応義塾大学教授。
福澤諭吉四男の大四郎の長男。大阪府出身。慶応義塾大学法学部、パリ大学、ロンドン大学卒業。訳書に『労働の歴史』(バレ著)がある。
福沢幸雄(ふくざわ さちお)
1943.6.18(昭和18)〜1969.2.12(昭和44)
昭和期のレーサー
フランス・パリ生まれ。当時フランス大使館に勤務していた父の進太郎(当時慶大法学部助教授)とフランスへ歌の勉強に来ていたギリシャ人のアクリヴィとの間に生まれる。
第2次大戦後、家族と共に帰国し、慶応義塾の中等部、高校をへて同大学法学部へ進学。
在学中からモーター・スポーツに親しみ、いすゞファクトリーの一員となり、ベレットGTで船橋サーキットに通い、1966(S41)1月トヨタ・ファクトリーの契約ドライバーとなった。
トヨタでは、スポーツ800,1600GT、2000GT、トヨタ7に乗り、数々のビッグイベントで好成績をおさめた。
特に1968年11月、富士スピードウェイでおこなわれた"日本CAN-AM"での健闘で名を馳せた。総合4位。日本人選手の中では第1位という成績。特に耐久レースには強かった。
レーシング・ドライバーとして活躍するかたわら、服飾メーカー"エドワーズ"の取締役・企画部長を勤め、さらに男性ファッション・モデルとしても著名だった。
1969年2月12日午前11時45分、場所は静岡県袋井市ヤマハ・テストコースにおいて、ドライブ走行中に突然コントロールを失い土提に激突、そのまま炎上し絶命した。25歳の若さであった。
福澤アクリヴィ(ふくざわ アクリヴィ)
1916(大正5)〜2001.12.16(平成13)
昭和期のソプラノ歌手。
ギリシャ出身。戦後間もなく、日本にフランス歌曲を紹介した。
夫の故福沢進太郎・元慶応大教授は福沢諭吉の孫。'69にはレーサーだった長男の幸雄を走行テスト中の事故で失った。
2001年12月16日老衰で死去。葬儀は19日正午、神奈川県鎌倉市の自宅で行われた。喪主は長女のエミ。
*2004年4月にご子孫様より情報をいただき、今月多磨霊園から善福寺へ改葬を行った旨の連絡をいただきました。
なお、進太郎氏、アクリヴィ氏、幸雄氏のお墓は鎌倉霊園にあるとのことです。情報誠にありがとうございました。
なお、「歴史が眠る多磨霊園」では、掲載したことをご縁と思い、歴史を学ぶきっかけを多くの方々に提供する目的であるため、大四郎氏のページをこのまま掲載し続けることとします。
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