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つるみ しゅんすけ

鶴見俊輔

つるみ しゅんすけ

1922.6.25(大正11)〜 2015.7.20(平成27)

昭和・平成期の文芸評論家、哲学者

埋葬場所: 5区 1種 12側

 東京市麻布三軒家町出身。代々は備中松山藩主の家老・代官。父は政治家の鶴見祐輔・愛子(共に同墓)の長男として生まれる。祖父は明治新政府のもとで紡績所の官営工場所長などを務め殖産興業に貢献した鶴見良憲(同墓)、外祖父は伯爵で政治家の後藤新平。父方伯母(父の祐輔の姉)の敏子の夫は電気工学者の廣田理太郎(14-1-91)、叔父に外交官の鶴見憲がおり、それぞれの子で従兄弟に婦人解放運動家・政治家の加藤シズエや人類学者の鶴見良行がいる。母方伯母(母の愛子の姉・養女)の静子の子は演出家・作詞家・社会主義運動家の佐野碩(1-1-6)、武装共産党時代の指導者の佐野博がおり従兄弟にあたる。姉は社会学者の鶴見和子(散骨)、妹の章子は法学者の内山尚三に嫁ぐ、弟はサラリーマン働きがいの研究等の著述家の鶴見直輔(同墓)。「俊輔」の名前の由来は伊藤博文の幼名からとったとされる。
 厳格な母親に反撥し、東京高等師範学校附属小学校3年生の頃から不良少年となる。母親が小遣いをくれないという理由で万引きをして換金、家の門の下に土を掘って埋め、必要なときに掘り出して使っていたというエピソードがある。附属であったが中学校に推薦されず、府立高等学校尋常科に入学するも1学期で退学となり、東京府立第五中学校(都立小石川高校)に編入したが中退。父の計らいで、1938(S13)渡米し、マサチューセッツ州コンコードのミドルセックス・スクールに入学。全寮制の寄宿舎で9か月間の勉強を経て大学共通入学試験に合格。'39身元引受人アーサー・M・シュレジンジャー・シニアの勧めでハーバード大学に進学、哲学を専攻。ホワイトヘッドやラッセル、クワイン、カルナップに師事。成績優秀で飛び級コースに属した。同大学の講師を務めていた経済学者の都留重人は生涯の師。
 '41太平洋戦争が勃発したが、留まり大学に通うも、翌年3月に無政府主義者としてFBIに逮捕され、東ボストン移民留置所、メリーランド州ミード要塞内の捕虜収容所に送られる。この間、大学の授業に出席ができなかったが、収容所から卒業論文「ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズム」を提出し教授会の投票で認められ卒業となった。これにより学歴は小学校卒、ハーバード卒となる。このことについて「政府と大学が別の判断に立つことを知った。アメリカの民主主義の岩床はしっかりしていることを、この獄中の体験でつかんだ」と祖国との違いを実感した瞬間について語っている。
 このまま収容所で捕虜として留まることができたが送還の選択を取り、同年6月に戦時交換船で日本に帰国。後に収容所ではイタリア人のコックから旨い飯をふるまわれ食事の心配なく終戦まで留まることができたが、米国を肌で感じてきた身として日本が敗戦すると思った。そうなった時に収容所に留まり戦後日本に帰国した際の後ろめたさを考えると悪いという気がして帰る選択をしたと後に回想している。
 帰国後、結核持ちであるにもかかわらず徴兵検査で第二乙種合格となり、徴兵を避けるため召集令状が届く前に海軍軍属に志願。'43インドネシアのジャワ島に赴任し、主に敵国の英語放送の翻訳に従事した。'44.12胸部カリエスの悪化により帰国し、敗戦を日本で迎えた。
 戦後海軍を除隊したあと、姉の和子の尽力で、和子と丸山眞男(18-1-31)、渡辺慧(14-1-3)、都留重人、武谷三男、武田清子とともに7人で「思想の科学研究会」を結成して雑誌『思想の科学』を創刊し、「共同研究 転向」など思想史研究を行う。創刊当初は、積極的に欧米思想、とりわけプラグマティズムと論理実証主義を紹介し、実質的にその編集を主導した。都留重人、丸山眞男らとともに戦後言論界の中心的人物とされる。'48京都大学嘱託講師、'49京都大学人文科学研究所助教授、'54東京工業大学助教授、後に教授。60年安保時には、政治学者の高畠通敏とともに「声なき声の会」を組織して岸信介内閣による日米安全保障条約改定に反対し、ベトナム戦争期には高畠らとともに「声なき声の会」を母体として「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を結成した。これにより東京工業大学教授退官し、'61同志社大学文学部社会学科教授となるも、'70大学紛争で同志社大学教授を退任した。
 大衆文化へ着目した評論を多く世に出した。アメリカの生活と思想に根ざしたリベラリズムの立場から戦後日本を代表するオピニオン・リーダーのひとりとなるが、その思想の核に据えられたものは戦争の記憶であった。『共同研究転向』(1959〜1962)に代表される知識人批判には「知識人はいかにして戦争に加担してしまったか」という反省が基本的動機としてあり、またこれと対(つい)をなす、かるた、らくがき、映画、ラジオ、漫画、大衆小説、流行歌、漫才などの限界芸術・大衆文化への注目は「人びとはいかにして戦争を阻止しうるか」という問題意識に動機づけられていた。とりわけ後者の視点は、「人びと」の日常生活やハビトゥス(生活感覚)にまで「下降」しつつ、民衆意識や大衆文化の研究に大きな成果を生んだ。と同時に、人々の集まり(サークル)の意義にも注目した。研究対象として「サークル」に注目するだけでなく、研究組織においても共同研究を重視し、「記号の会」、「転向研究会」、「家の会」、「現代風俗研究会」などの重要なメンバーとなった。「戦後知識人」といわれる人々のなかで、「ふつうの人びと」の生活と意識をもっとも重視した思想家であり、彼らのなかから数多くの書き手を発掘した。この意味で鶴見は、知識人と「人びと」を媒介する知識人であった。
 また趣味は漫画を読むことであり、漫画評論の先駆けの一人でもある。特に高く評価していた漫画は山上たつひこ『がきデカ』である。ムキダシの欲望であばれ回る少年『がきデカ』を「自分の欲望に従って生きようというがきデカが増えたことがファシズムの防波堤になる、と思う。簡単に、命令一下の体制に追い込むわけにはいかないですよ」と評した。2004(H16)大江健三郎や小田実らと共に九条の会の呼びかけ人となる。肺炎のため京都市の病院で逝去。享年93歳。
 '82『戦時期日本の精神史』で大佛次郎賞、'90(H2)『夢野久作』で日本推理作家協会賞、'94同作品は朝日賞にも輝いている。2007『鶴見俊輔書評集成』(全3巻)で毎日書評賞を受賞した。その他、主な著書は、1946『哲学の反省』、1950『アメリカ哲学』、1967『限界芸術論』、1973『漫画の戦後思想』、1975『高野長英』、1976『柳宗悦』、1981『戦後を生きる意味』、1985『大衆文学論』、1991『アメノウズメ伝−神話からのびてくる道』、1999『教育再定義への試み』、2006『詩と自由 恋と革命』など多数有り、共著・編著も多数発刊した。
 妻の横山貞子(1931-)は英文学者・翻訳家。1960鶴見俊輔と結婚。京都精華大学名誉教授。長男の鶴見太郎(1965-)は歴史学者。民俗学の研究者として知られ、橋浦泰雄研究の第一人者。

<講談社日本人名大辞典>
<小学館 日本大百科全書>
<新藤謙 『ぼくは悪人 少年鶴見俊輔』>
<「鶴見俊輔氏死去 万引き・退学…小学校卒でハーバード 行動派知識人」朝日新聞>


つるみ ゆうすけ

*墓所には二基建ち、左側に「鶴見祐輔 / 愛子」の墓。右側に和型「鶴見家之墓」、裏面「昭和三十一年四月 鶴見祐輔 建之」。右面が墓誌となっており、俊輔の曽祖父で備中松山藩主の代官を務めた鶴見良輔(友作)。祖父で明治新政府のもとで紡績所の官営工場所長などを務め殖産興業に貢献した鶴見良憲の刻みもあり同墓に眠る。墓所右側に墓誌があり、祐輔・愛子・直輔・俊輔の名が刻む。姉の鶴見和子は生涯独身であったが紀伊の海に散骨されたため墓誌には刻みがない。

*代々は備中松山藩主の水谷(みずのや)氏の家老、鶴見内蔵助を祖。直系は孫の代で絶えるが、内蔵助の娘の子が鶴見定右衛門良喬として名跡を継ぎ、水谷主水家二代目勝英のときに代官となった。以後、良喬−良峯−良顕−良輔(友作)−良憲と続く。幕末に近い頃、川沿いの黒鳥(くろどり)の地に知行所を移した。鶴見家は良憲の代に黒鳥から出ていくが、一族が跡地に住んだとされる。明治維新後、新政府のもとで殖産興業に貢献した。群馬県高崎市新町「旧新町紡績所」が官営工場であった時の最後の所長を務めた。



第309回 文芸評論家 戦後言論界の中心的人物 思想の科学 鶴見俊輔 お墓ツアー


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