江戸・芝(東京都港区浜松町)出身。幕臣の木村芥舟の次男として生まれる。東京大学予備門を経て、1888(M21)東京帝国大学理科大学物理科を卒業。大学院に進み、その頃、植村正久(1-1-1-8)から洗礼を受けクリスチャンになる。
1889 大学院生在籍のまま、第一高等中学校教諭となる。翌年教授となり、同じキリスト教徒の内村鑑三(8-1-16-29)を第一高等中学校の先生に推薦し、内村は嘱託教員になった。ところが、翌 1891.1.9 内村鑑三が不敬事件を起こしてしまう。これは教育勅語の奉読式が行われ、天皇の署名のある勅語に教員及び生徒が最敬礼をする際、内村は軽く頭を下げてすませ降壇し、最敬礼をしなかったことが、礼拝を拒んだとされ、「非国民」として非難が起きた。マスコミが大きく取り上げ社会問題化となり、事件はキリスト教と国体の問題へと進展していった大きな事件が「内村鑑三不敬事件」である。後に木村の妻の木村香芽子の回想録によると、木村は当日風邪をひいて休んでおり何も知らないのに、クリスチャンで内村の推薦者だということで同罪のように見られたと回想している。学校も休職に追い込まれ契約満了で退職させられたため、立教学校の教頭になった。一年間勤めた後、1893.8〜1896.7 米国のハーバード大学、イェール大学の大学院に留学した。
帰国して、第二高等学校教授に就任。1895 イタリアのマルコーニが無線電信機を発明し、木村はこの無線電信機を購入して学生の前で実験をするなど、国内で先駆けて無線電信機に触れていた。このことから、兄の木村浩吉(海軍少将)の仲立ちで無線電信調査委員に任命され、1900.3 海軍教授となる。1902 欧米視察をし、帰国して、無線電信研究家の池田武智(7-1-12-45)、通信技師の松代松之助(2-1-7)らと共に三四式無線電信機を開発し、日本海軍式無線電信(艦船用無線電信機)の通信を行い、約8哩の距離で成功した。1903には1170kmの通信が可能となり、三四式無線電信機は海軍に制式採用された。その後も木村は更に改良を重ね、三六式無線電信機を開発。日露戦争でこの無線電信機を乗せた信濃丸から、バルチック艦隊発見の「敵艦見ゆ」の警報が発せられることになり、また日本海海戦中も艦船間の情報交換が可能となり、勝利に貢献しました。無線電信機の創製や日露戦争の功により勲3等旭日章を受け「無電の父」と称された。
日露戦争後、海軍軍属として英国やドイツに出張し、海軍技師・横須賀工廠造兵部員、無線電信改良委員、艦政本部員兼造船廠電気部員を歴任。'13(T2)47歳にして、高等官2等に昇進。これは海軍技師として最高の位。翌 '14 海軍を免官し、日本無線電信電話会社取締役。'15 工業的オゾン発生装置を発明している。余生は特許弁理士として活動した。享年71歳。
<世界人名辞典(東洋篇)> <講談社日本人名大辞典> <日本大百科全書> <電気通信大学60年史「2-3 海軍も注目」参考> <人事興信録>
*墓石正面「木村駿吉墓」。墓石裏面に木村駿吉の名と没年月日。行年は73歳と刻む。妻は香芽子。右面は早死した長男(阿蒙:あもう:25歳没)、次男(緯:おさわ:1歳没)、85歳で亡くなった長女の維子(S54.1.4没)が刻む。墓所左側に墓誌があり、木村忠直(S61.12.30没・行年57才)のみが刻む。
*妻の香芽子(S26.7.13没・享年80歳)の幼名はかめ子または亀子で、のちに表記を変更したという。香芽子の兄は巌本善治。香芽子は『結婚生活の回想』や『無電の父を語る』などの思想談、夫没後に発表している。
*木村駿吉と香芽子の間には2男5女を儲けるが、男子2人とも早死したため、三女の多賀子の二男の忠直が木村家の養子となった。忠直の妻は康子。三女の多賀子は海軍中将で航空戦術の研究者で有名な桜井忠武に嫁ぐ。なお、桜井忠武の兄は陸軍少将で「肉弾」作者で世界的に著名な桜井忠温(8-1-15)。その他の娘たちは、海軍大佐の津留信人、美術評論家の税所篤二に嫁いだ。なお銀行家の小野英二郎(6-1-5-11)の二男の勇二は、母方の鶴の父である岡山県人の税所篤人の養子となり、篤二と改名。税所篤二として日仏美術交流に尽力した。
第395回 無電の父 「敵艦見ゆ」日露戦争の影の立役者 木村駿吉 お墓ツアー
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