京都出身。松代永秀の長男として生まれる。1886東京へ出て工学を学び、逓信省通信技師となり電気試験所に入る。まず1895(M28)蓄電器の需要が増大したため、蓄電器用パラフィン紙の雁皮紙の製造法を、池田武智(7-1-12-45)とともにおこなった。
この年にマルコーニが無線電信実験に成功し、このことが1897年5月に英国郵政庁技師長フリースがこれに関する講演を行い、その内容が雑誌エレクトリシャンに掲載されてわが国に伝えられた(一説には同年1月のイギリス新聞の記事で知ったともいう)。雑誌エレクトリシャンの記事は、逓信省航路標識管理所の石橋絢彦所長から電気試験所長の浅野応輔(8-1-7-2)に伝えられた。浅野所長は電気試験所の松代松之助電信主任に伝え、ヘルツ波無線電信の研究を命じ、逓信省内に無線電信研究部を設けて本格的な研究を開始させた。マルコー二の発明の詳細については秘密に付せられており、理論の研究、機器の試作・実験などに多大の苦心があり、実験用部品はすべて自作するなど幾多の難問を克服しながら試験を進めた。研究はまずコヒーラーから始め、模索状態の中で開発を展開し、1897(M30)11月築地海岸に送信機を設置し、受信機を小船に乗せて1.8kmの通信に成功した。翌年12月、月島と第5台場間(3.3km)において自ら開発した無線電信機を使って双方向の通信実験に成功。通信距離は徐々に伸び、1903には1170kmの通信が可能となった。これに対して海軍も1899にマルコーニの無線通信の研究を開始することになり、「無線通信調査委員会」を設けた。1902に34kmの通信に成功。この技術は1905(M38)日露戦争の日本海海戦で使用された「36式無線電信機」の開発につながっていく。
松代は1900に海軍省に移り、木村駿吉(7-1-5-3)や池田武智(7-1-12-45)とともに、1901に34式無線電信機を開発。
木村駿吉は更に改良を重ね1903に36式無線電信機を開発した。
その後、松代は日本初の海底線通信法に貢献。1906 東京小笠原 間の海底ケーブルが出来てアメリカ本土との直接通信が可能となった。一方で、仲間との協力による研究で、世界最初の送受信同時に可能な無線電話機を完成させた。この時に協力したひとりが無電学者の鯨井恒太郎(22-1-8-15)である。
築地工手学校通信官吏練習教授として後進の指導にあたる。退官後は、日本電気株式会社の取締役になり、大阪支社を創立させ大阪支店長に就任。傍ら、守谷商会監査役も務めた。享年80歳。
<世界人名辞典(東洋偏)> <電気通信大学60年史「2-3 海軍も注目」参考> <人事興信録>
*墓石は和型「松代家之墓」、裏面「大正乙丑十四年三月 松代松之助 建之」。墓石を挟み左右に墓誌が建つ。松之助は右側の墓誌の上の段の一番左に刻む。戒名は實成院釋宗軒。左側の墓誌は松之助の二男の松代穣治の妻の久子(R2.11.15没・99才)から刻む。墓誌裏面「令和三年 仲春一彦 建之」。
*松代松之助の妻はチヤウ(上原真助の長女)。二人の間には4男4女を儲け、3男とも同墓に眠る。長男の松代青一郎、二男の松代穣治、三男の松代正三、四男は松代重四郎。長女の照子は守谷商会の守谷吾平(2-1-7)の長男の守谷正毅(2-1-7)に嫁ぐ。二女の春子は大塚工場社長の大塚栄吉の長男の大塚肇に嫁ぐ。三女の千代は石川島コーリング取締役の黒住隆晴に嫁ぐ。
松代青一郎 1898.3(明治32)〜1979.12.9(昭和54)昭和期の実業家
松代松之助の長男。逓信省電機試験所。1932 日本電気に入る。'49 日本通信工業常務、'54 日本電気硝子取締役、'61 日本電気硝子顧問。
*妻の恭子は宮崎義平の長女。長男の松代洋一は帝京大学教授。長女の正子は中林宏の妻。
松代穣治 1911.9(明治44)〜1973.2.14(昭和48)昭和期の実業家
松代松之助の二男。東京電気に入り、1953 芝浦共同工業取締役。
*妻の久子は香川県警察部長を務めた安原舜一の三女。長男と二男は早死。三男は松代伸之、長女は千加子、二女は早苗。
松代重四郎 1917.10(大正6)〜1945.3.10(昭和20)昭和期の実業家
松代松之助の四男。石原産業。東京大空襲で逝去。
第397回 日本初の無線電信機を開発 松代松之助 お墓ツアー 日露戦争の影の立役者
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