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まつしろ まつのすけ

松代松之助

まつしろ まつのすけ

1866(慶応2)〜 1948.4.22(昭和23)

明治・大正・昭和期の無線通信発明者、技師

埋葬場所: 2区 1種 7側

 京都出身。1886東京へ出て工学を学び、逓信省通信技師となり電気試験所に入る。まず1895(M28)蓄電器の需要が増大したため、蓄電器用パラフィン紙の雁皮紙の製造法を、池田武智(7-1-12-45)とともにおこなった。 この年にマルコーニが無線電信実験に成功し、このことが1897年5月に英国郵政庁技師長フリースがこれに関する講演を行い、その内容が雑誌エレクトリシャンに掲載されてわが国に伝えられた(一説には同年1月のイギリス新聞の記事で知ったともいう)。 雑誌エレクトリシャンの記事は、逓信省航路標識管理所の石橋絢彦所長から電気試験所長の浅野応輔(8-1-7-2)に伝えられた。浅野所長は電気試験所の松代松之助電信主任に伝え、ヘルツ波無線電信の研究を命じ、逓信省内に無線電信研究部を設けて本格的な研究を開始させた。 マルコー二の発明の詳細については秘密に付せられており、理論の研究、機器の試作・実験などに多大の苦心があり、実験用部品はすべて自作するなど幾多の難問を克服しながら試験を進めた。 研究はまずコヒーラーから始め、模索状態の中で開発を展開し、1897(M30)11月築地海岸に送信機を設置し、受信機を小船に乗せて1.8kmの通信に成功した。翌年12月、月島と第5台場間(3.3km)において自ら開発した無線電信機を使って双方向の通信実験に成功。 通信距離は徐々に伸び、1903には1170kmの通信が可能となった。これに対して海軍も1899にマルコーニの無線通信の研究を開始することになり、「無線通信調査委員会」を設けた。 1902に34kmの通信に成功。この技術は1905(M38)日露戦争の日本海海戦で使用された「36式無線電信機」の開発につながっていく。松代は1900に海軍省に移り、木村駿吉(7-1-5-3)や池田武智とともに、1901に34式無線電信機を開発。 木村駿吉は更に改良を重ね1903に36式無線電信機を開発した。1906には東京小笠原間の海底ケーブルが出来て米本土との直接通信が可能となり、一方鳥潟・横山・北村三氏の協力による研究で、世界最初の送受信同時に可能な無線電話機が出来上がった。 この時に協力したのが無電学者の鯨井恒太郎(22-1-8-15)であり、鯨井のところに出入りしていた八木秀次は後に八木アンテナを開発する。以降、岡部型マグネトロンと次々と日本人は世界的成果を挙げることとなる。 これらからわかるように松代は日本の無線通信発達の基として尽力したのだ。晩年は日本電気株式会社取締役に就任した。享年82歳。

<世界人名辞典(東洋偏)>
<電気通信大学60年史「2-3 海軍も注目」参考>


*子の松代正三(同墓)は計測・制御工学者として活躍した。


関連リンク:

松代正三池田武智浅野應輔木村駿吉鯨井恒太郎

電気通信大学:電気通信大学60年史、2-3 海軍も注目



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