東京京橋出身。1907(M40)東京帝国大学工科大学電気科卒業。逓信省電気試験所所員を経て、1908(M41)母校の東京帝国大学の鳳秀太郎教授の研究室にて助教授となった。鳳秀太郎の実妹は与謝野晶子(11-1-10-14)である。'18(T7)教授となる。工学博士。'24〜'28東京市電気研究所初代所長を兼任。著書に『電力輸送配電法』(1914)がある。
真空管発達以前から無線通信工学に取り組み鉱石検波器の研究に業績をあげ、'11無線電話機、'15周波数変換装置を発明、理化学研究所では電気絶縁材料の研究を指導した。無線の電波の発生装置に関する研究を完成し、更に電気試験所で鳥潟右一らと研究を続け、'16(T6)鳥潟らと共同の「無線電信電話に使用する電気振動間隙に関する研究」にて学士院賞を受ける。
'26.5〜同.10秘密通信機に関する特許を4件出願。'27(S2)東京市を特許権者として秘密通信機に関する特許第71523号、特許第733403号及び特許第733743号を取得し、'30特許第848443号を取得。整流器、電気集塵(しゅうじん)機、白熱電球利用の光通信機など多くの発明・特許があり、権利化を重要性を先駆けて行った。
'28(S3)日本大学工学部創設にあたり電気工学科の設置に尽力した。'29東京工業大学の創設とともに電気工学科主任教授を兼務。理化学研究所員、電気学会副会長、日本ラジオ協会副会長、照明学会会長なども歴任した。門下からは仁科芳雄(22-1-38-5)ら多くの電気工学者が輩出した。八木アンテナの発明者となる八木秀次に無線分野に進むように示唆したと伝えられている。享年51歳。没後、'36故鯨井恒太郎教授記念事業委員会の編にて『鯨井教授の研究と発明』が刊行された。
<世界人名辞典(東洋篇)東京堂出版> <日本大百科全書など>
*墓石は和型「鯨井家之墓」、左面、裏面、右面は墓誌となっており、右面に鯨井恒太郎が刻む。墓所左側に墓誌が、恒太郎の長男の鯨井正治により「昭和五十年九月」に建之された。墓誌より、恒太郎の父は鯨井兵五郎(T6.8.8没・行年61才)、母は はな(T9.1.29没・行年59才)。恒太郎の戒名は普光院恒徳理勲居士、「従三位 勲二等 工学博士」と刻む。妻はチカ(S48.9.27没・行年87才)。長男の鯨井正治(H24.1.9没・行年101才)は化学者・日本大学教授。正治の妻は聖子(H31.4.17没・行年101才)。恒太郎の三男の鯨井祐三(S20.5.12・行年23才)は「陸軍少尉 勲六等」と刻み、沖縄にて戦死。
【秘密通信機】
普通のラジオにあっては震幅を音声に変化させて送るが、鯨井の発明品はこれを変化させずに電波の位相を変えて送る方法である。この特殊な通信機であるため、この通信を受けるためにつくった受信機以外には絶対に感じない、すなわち完全に、通話の秘密の保たれる方法である。
第394回 無線通信工学のパイオニア 発明者の特許と権利化 鯨井恒太郎 お墓ツアー
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