長崎県出身。島原藩士・明治武道保持者の石河光英の子。島原藩書道指南役の石河寿萬は母親(両親とも分骨)。海運学者である堀光亀(15-1-4-13)は兄。
内村鑑三(8-1-16-29)の門下生であり、師より正規の学校教育を受けることを諭され、東京美術学校油絵科に入り特待生となる。卒業制作『隣の人』は帝展に初入選。
1921(T10)東京美術学校卒業。前田寛治と渡欧。フランス留学後、『西洋宗教名画集』を出版、1939(S14)1月、中国滞在の日記的記録を『旅人・寄寓者』として発行、翌年5号で終る。
アマースト大学にある内村鑑三の肖像画や矢内原忠雄(2-2-1-19)の肖像画は好評を博す。内村のデスマスクを作成した。戦後は日展に入選、のち無所属。
<『無教会史?』ほか> <MATSU様より情報提供>
*墓所には「石河家之墓」とともに石河光哉本人、両親、妻の4名の簡略歴が刻む。墓石の左側手前には「石河光胤之墓」が建つ。
【石河家之墓に刻む簡略歴】
石河光英 日本武徳会剣道教士
島原藩士、明治武道の保持者なり。日本全土に足跡普し、大正年間、長崎県武徳会にあり、長崎高等商業学校で教える。東京商科大学名誉教授の堀光亀はその二男なり。大正九年十一月十五日七十六歳にて没す。
石河壽萬 光英の妻
島原藩書道指南役。田中紫洋先生の女謹直貞節また能く、古稀を越えるもキリスト教を信じ、讃美歌を習い、禁煙を励行し、病弱に克ち、子女に順へり。昭和三年二月七十八歳にて逝く。
石河光哉
光英・壽萬の三男。長崎に生まれる。鎮西学院から青山学院へ転じ、明治四十四年卒業。大正二年に内村鑑三先生門下生となる。東京美術学校特待生。卒業制作の肖像画「隣人」が当時の帝展入選。生涯眞實の描写にかけ、無放会画家として聖地に赴き、欧州各国に足跡を印す。内村先生期待の大旅行家を全うした。昭和五十四年四月二十五日、東中野で八十四才十ヶ月で没す。
石河マツ 光哉の妻
東京中野に生まれ、進歩的で意志堅固、行動力に富み、常に自然と共に歩み、平成十年四月二日、九十六才十一ヶ月で逝く。
*墓所は島原市晴雲寺より分墓す。多磨霊園の墓所は光哉が建之。
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