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ほり みつき

堀 光亀

ほり みつき

1875(明治9)〜 1940(昭和15)

明治・大正・昭和期の海運学者

埋葬場所: 15区 1種 4側 13番

 長崎県出身。島原藩士石河光英(6-1-15)の次男として生まれた。実弟に洋画家の石河光哉(6-1-15)がいる。 長崎市立商業学校に入り、上京、東京商業学校(現一橋大学)に入る。1901(M35)卒業後、一橋の講師となる。
 堀は日本で初めて海運学を創設した。そして、海運学を一橋のみならず、明治大学でも1907〜1920(M40〜T9)の間、講義する。 1923(T12)自身の海運学を生かして、時事新報に「築港の必要は自明の理―既往の東京は世界的畸形児―」という論文を載せた。 その序文は、「いやしくも転禍為福的帝都復興計画は東京築港を以て其基調としなければならぬ。 即ち小にしては帝都の関門大にしては帝都の関門たるべき一大商港を東京自身に持つと云う新鋭なる積極的要素を加味してこそ始めて復興の復興たる意義を実現するものである」というものだった。 ここで堀は、関東大震災によって廃墟と化した東京に港を作ることによって復興させようという独自の論を展開している。
 その後、東京商科大学付属商学専門部の2代目主事に就任。堀によれば、専門部はもとより「学部への第2予科たる地位を占むべきものではなくそれ自体完成教育を志向する独自の教育機関」だった。 だが、それは、1931(S6)に起こった、文部省の一橋予科と専門部廃止の動きだった。後にこれは籠城事件と呼ばれることになる。 すぐさま堀は佐野善作学長、木村恵吉郎予科主事とともに文部省と大蔵省を訪れた。しかし、堀を待っていたのは、「大臣不在」という官僚のそっけない一言だった。 やむなく堀は関係者に面接し、書面をもって、廃止案に絶対反対であると申し入れ、大学へと帰還した。このとき堀の脳裏にある1人の人物が浮かんでいた。それは、一橋創設以来の功労者、渋沢栄一子爵だ。 渋沢なら何とかしてくれるかもしれない、そんな思いが堀にはあった。2日後、堀は藤沢義苗理事長、木村恵吉郎予予科主事、内池廉吉教授とともに、滝野川の渋沢邸を訪問する。 応援を渋沢に求めると、渋沢はこれを快諾し、政府当局その他要路に対して運動することを約束した。渋沢による応援、このことは反対運動への追い風となった。
 同じ日、一橋学生の代表者は、井上準之助蔵相に計画の撤回を求めて蔵相官邸に乗り込むも、蔵相に一蹴される。 大学に戻った彼らに、堀は激励演説を行い万歳三唱して散会した。その後、堀の活躍等により計画は白紙に戻され、堀は胸をなでおろした。
 籠城事件から6年後の1937(S12)堀は他の13教授とともに辞表を提出する。これは、三浦学長の人事に不満を持った堀の一橋を思うが故の行動だった。 このことの責任を取る形で三浦学長は辞任し、上田貞次郎(19-1-10-3)が学長に就任した。

<一橋大学新聞部の別宮様より情報提供>


【多磨霊園に眠る一橋大学教授の墓】
浅田栄次英文学者一橋大学教授
上田貞次郎経済学者一橋大学教授一橋大学出身
正田貞一郎実業家(日清製粉)一橋大学出身上皇后美智子
杉本栄一理論経済学者一橋大学教授一橋大学出身
左右田喜一郎経済学者,哲学者,銀行家,貴族院議員一橋大学講師一橋大学出身
高宮 晋商業学者一橋大学教授
根岸 佶経済学者一橋大学教授
福田徳三経済学者一橋大学教授一橋大学出身
藤本幸太郎海上保険論,統計学一橋大学名誉教授一橋大学出身


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*一橋大学新聞部の皆様の更なるご活躍をお祈りしております。



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