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そうだ きいちろう

左右田喜一郎

そうだ きいちろう

1881.2.28(明治14)〜 1927.8.14(昭和2)

明治・大正期の経済学者、銀行家

埋葬場所: 6区 1種 13側 8番

 神奈川県横浜市出身。横浜の金融界で活躍した左右田金作の長男。1904(M37)東京高商(一橋大)専攻部卒業。在学中は福田徳三(5-1-1-6)に学び貨幣理論を研究した。 イギリス・ドイツに留学。在英中はケンブリッジ大学で新古典派の経済学を代表する研究者のアルフレッド・マーシャルに師事。 その後ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州に10年間留学し、アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルクでカール・ヨハネス・フックス教授のゼミナールに参加。 在独中『貨幣と価値』『経済法則の論理的性質』を著わしてドイツ学界で認められ、後この2著により帝国学士院賞を受賞('24)。
 '13(T2)帰国後、東京高商や京大講師を勤め、また横浜社会問題研究所を主宰した。新カント派哲学の立場から、歴史科学における「文化価値」の理念に対応して、経済学における「貨幣計算」の理念を主張。 ただし、先験的な規制理念と経験的な基礎概念との区別は必ずしも明瞭でなく、恩師である福田徳三との間に論争があった。'17「経済哲学の諸問題」、'21「文化価値と極限概念」などの著作で経済哲学を確立し、新風を巻き起こした。
 また家業の左右田銀行では、'15父の死去に伴い頭取に就任。横浜商品倉庫・保険会社等の役員に就き、さらに神奈川県匡済会評議員・横浜社会問題研究所長など神奈川県の社会事業に貢献した。'25貴族院議員も務める。
 '20経済恐慌で取り付け騒ぎにあい、関東大震災で痛手を負い、昭和恐慌で、ついに家業の左右田銀行が倒産。同時に自らも病を得て逝去。享年46歳。法学博士。

<コンサイス日本人名事典>
<朝日日本歴史人物事典など>


*墓所は「左右田喜一郎之墓」。墓所右側に平成三十年十一月に藤澤信光建之で墓誌が建った。墓誌には「左右田家」として左右田喜一郎、妻の左右田直(S56.1.15・87歳)。「藤澤家」として藤澤五十鈴(H30.9.20・101歳)が刻む。妻の直の父は米沢上杉家13代当主の上杉茂憲。兄に伯爵の上杉憲章がいる。五十鈴は喜一郎と直の長女。

*左右田家の祖先は越後国(新潟)の豪農であり、その後、上州(群馬)に出て商人となる。喜一郎の父の左右田金作は二男であったこともあり丁稚として商店に奉公に出る。明治維新の直前に横浜に行き両替商を行い財を成し、1895(M28)左右田銀行をつくっていくことになる。左右田金作は田島常右衛門の3女のトヨと結婚し、喜一郎、徳郎(理学博士)、七郎、玉子、静(棟一を婿養子)、良三、郁、六郎、道雄を儲ける。左右田一族の墓は横浜の蓮光寺にあり、左右田喜一郎の正墓はそちらである。多磨霊園の墓誌には刻まれていないが、左右田喜一郎の戒名は法相院釈輝祥居士。


※左右田金作の弟の左右田信二郎は、留子と結婚し、長男は誠一、二男に道雄を生んでおり、左右田道雄が黒沼健の筆名で推理作家・SF作家として活躍した。多くの人名事典では黒沼健を左右田喜一郎の息子とするものが多いが、実際は従兄弟が正しい。金作と黒沼健は横浜の蓮光寺に眠っているとわかったが、人物を通して歴史を学ぶことをコンセプトにしているため左右田金作と黒沼健は掲載を継続する。


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