東京麻布出身。父の上田章(1833-1881)は紀州藩の儒学者で、藩校明教館寮長や藩公用局副知事などを務めた。
1902(M35)高等商業学校(一橋大学)専攻部貿易科卒業。同校教授で経済学者の福田徳三(5-1-1-6)に師事。卒業論文は『外国貿易論』。
卒業後、イギリス・ドイツ留学し、帰国後'05母校教授となり、商工経営商業政策等を講義する。
紀州徳川家第15代当主徳川頼倫の長男で侯爵の徳川頼貞が'14ケンブリッジ大学に留学する際に同行し、貞次郎も留学。
イギリスの社会問題研究家のウェッブ夫妻らと交流した。帰国後、'16(T5)徳川家理事('26顧問)となる。'18商学会を設立し同幹事就任。
'19「株式会社経済論」で法学博士。同年、第1回国際労働会議(国際労働機関)政府代表顧問に代表の鎌田栄吉に請われ就任した。'20東京商大教授。'25如水会常務理事。
貞次郎は日本の経営学研究を確立し、スミスやミルなどのイギリス経済学の影響を受けた理論的・実証的研究を行う。
生涯を通じ商業政策や企業経済に関する研究を続ける一方、'26個人雑誌「企業と社会」を創刊。
「学者は実際を知らず、実際家は学問を知らず、政治は産業を離れ、産業は社会に背く、是実に産業革命の波濤に漂へる現代日本の悩みではないか。吾人は此混沌裡にあって、企業より社会を望み、社会より企業を覗ひ、眼前の細事に捉はれず又空想の影を逐はず、大所高所より滔々たる時勢の潮流を凝視して、世界に於ける新日本建設の原理を探らんとする。」しばしば引用されるこの名文句は、「企業と社会」の宣言である。2年間継続し「新自由主義」を提唱し自由通商運動を推進した。
'27(S2)国際経済会議日本代表に首席代表の志立鉄次郎に請われ就任。'28志立鉄次郎や平生釟三郎とともに自由通商協会を設立し同常務理事。
'31文部省の予科・専門部廃止の動きによる一橋大学の規模縮小に対して学生が抗議し阻止すべく籠城した「籠城事件」が起こった際、国・教授・学生の仲介に入り、学生の籠城を解き、円満解決させた。'32勲二等瑞宝章受章。
'33人口問題研究会理事、'33及び'36太平洋会議日本代表等も歴任した。'36三浦新七の後任として東京商科大学学長に就任。
'37帝国学士院会員。'39東京海上社長等を務めた各務鎌吉(16-1-1-1)の遺産をもとに東亜経済研究所(経済研究所)を設立し初代所長に就任した。
'40人口問題の研究に新分野を開拓し、国立人口問題研究所(国立社会保障・人口問題研究所)参与。同年、学長在任中のまま、盲腸炎で急逝。正三位旭日重光章。享年61歳。
上田貞次郎ゼミ生には、茂木啓三郎(1899-1993、キッコーマン)、正田英三郎(1903-1999、日清製粉)、森泰吉郎(1904-1993、森ビル)、小坂善太郎(1912-2000、政治家)(8-1-13)など多数在籍した。
主な著書に、『上田貞次郎全集』全7巻(1975-1976。各巻のタイトルは『経営経済学』『株式会社経済論』『産業革命』『社会改造と企業』『貿易関税問題』『日本人口論』『新自由主義』)など多数ある。
随筆『白雲去来』(1940)、日記『上田貞次郎日記』全3巻(1963-1965)。評伝としては、小泉信三(3-1-17-3)「上田貞次郎」(『現代人物論──現代史に生きる人々』1955)、上田辰之助「新自由主義の企業者職分論──士族的職分思想家としての上田貞次郎博士」(『経済人の西・東』1988)、山中篤太郎「上田貞次郎先生── 一つの評伝」(1965)などがある。
長男の正一は『上田貞次郎伝』を著した。二男の上田良二(1911.10.1-1997.7.2 同墓)は物理学者で名古屋大学教授を務めた。三男は信三、四男は勇五。元新潟県農業試験場。
*父の上田章の碑が青山霊園にある。
*没後、在学生の寄付により一橋大学キャンパス内に上田貞次郎胸像が建てられた。学生の熱意に打たれて、彫刻家の朝倉文夫が材料費だけで制作。国立キャンパスに二つ現存しており、西キャンパス陸上競技場脇と図書館の中にある。
*2005年6月に一橋大学新聞部の学生からメールを頂戴し、中央線各駅特集企画の武蔵小金井駅編にて多磨霊園を扱うため協力の打診を受け、一橋大学出身者や教授の墓所および国立市にゆかりのある人物の情報を提供しました。
一橋大学新聞部は現況の情報だけではなく、大学の歴史や周辺情報にも力を入れており、もちろん大学キャンパス内の銅像の特集もあります。
なお、一橋大学キャンパス内に現存する銅像で多磨霊園に墓所がある人物は、上田貞次郎の他に、福田徳三、堀光亀(15-1-4-13)がいる。