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かがみ けんきち

各務鎌吉

かがみ けんきち

1869.2.3(明治1.12.22)〜 1939.5.27(昭和14)

明治・大正・昭和期の実業家(保険)、財界人、政治家

埋葬場所: 16区 1種 1側 1番

 美濃国方県郡安食村(岐阜県岐阜市)出身。農家の各務省三の次男として生まれる。兄は愛知銀行取締役や明治生命保険取締役などを務めた各務幸一郎。姉は漢詩人の森槐南(14-1-3-3)に嫁いだ。1877(M9)父は駅逓寮(郵便局)の下級官吏として勤務する関係で一家は上京。後に官吏を辞して京橋で葉茶屋を始めた。1900.4 分家。
 東京府立第一中学校を経て、1888(M21)東京高等商業学校(一橋大学)を首席で卒業。大阪商品陳列所の書記となり、後に京都府立商業学校教諭に転じた。東京海上保険会社支配人の益田克徳と親戚であった東京高等商業学校校長の矢野次郎の推薦で、1891.10(M24)月給10円で東京海上保険株式会社に入社。最初は簿記方を勤めた。後に営業となり成績は優秀であった。
 東京海上保険は創業当初よりロンドン、パリ、ニューヨークで元受営業をしていた。1890 イギリスにロンドン、リバプール、グラスコーの3か所に代理店を設置したことで、海外での船舶保険料収入が全保険料収入の50%を超える急成長を遂げていた。しかし、この急成長は業務を委託した代理店が多額の手数料収入を得るため、リスクを軽視して契約をしたことも多く、収支が急激に悪化し、1894頃には経営危機に陥りかねない程の事態を招いていた。
 1894 イギリスでの失敗の原因究明と対策、経営全般の再建のために、入社4年目であった各務(当時26歳)と、入社間もない平生釟三郎(ひらお はちさぶろう 当時29歳)がロンドンに派遣された。イギリスでの契約内容をいちから再精査し、独力で保険統計を作成、原因が引き受けの不備であることを突き止めた。議論を重ね、業務委託していた代理店との関係を解消し、自らリスク判断の考え方をまとめ改善を進めた。イギリス、ヨーロッパで評価が高いウィリス・フェーバー商会に代理店業務を委託し、海外営業の立て直しをはかり、日本で引き受けた貨物保険の包括再保険契約をロンドン市場と締結。さらに保険業務や海上保険理論を研究をし、経理方法の改革を断行。未経過の保険料を利益とする現計計算から年度別計算へ移行を進め、1897 完了させ帰国。
 この海外代理店の整理、決算制度の改正、減資などの新企画を次々に打ち出した経営刷新により経営不振の会社の再建に成功させた。帰国後は本店営業部長を務めた。1899 再度渡英した際に、ウィリス・フェーバー商会の代理店で働く人たちと宴を開き、その席上で、当時東京海上は危機的状況で破産寸前であったことを話、代理店で働く皆のお陰で回復したと感謝の意を表した。それを聞いた代理店で働く英国人たちは、当時そのような状況であったことを全く知らずに取引を開始したため、各務の手腕に驚かれたという逸話がある。
 その後、専務取締役を務める。日露戦争後の日本の産業発展に海上保険だけでなく、火災保険、運送保険、'14 日本で初めて自動車保険も取り扱うようになり「ノンマリン保険」と称したこれら保険で発展していった。'19(T8)アトランティック国際通商会議に日本財界を代表して出席。'22 明治火災保険会長に就任。'23 スタンダード‐インシュアランス‐オブ‐ニューヨークを設立し海外進出を果たした。
 同.9.1 関東大震災発生。多くの建物が火災により焼失したことで、火災保険を契約していた建物の持ち主たちから保険を期待された。しかし地震に起因する火災については保障の対象外である約款に従ったことで、契約者たちの不満が高まり社会問題となる。政府は各保険会社に犠牲的精神の発揮を要望したが、損害額が高額であることから支払いは不可能であり、各社とも対応に苦慮した。この時、業界団体トップであった各務は、事態の解決に向けて骨身を惜しまず奔走。協議を重ね、政府から助成金を借り入れた上で、保険金額のうち1割を見舞金として契約者に支払う苦渋の提案をした。この約款の解釈を超越した提案により、沸騰する世論を沈静化させ、損害保険の公共性を考慮した決断としてリーダーシップを発揮した。
 '25 三菱海上火災保険会長、東京海上火災保険会長(没するまでその職にあった)に就任。損害保険業界の指導的経営者として、日本火災保険協会、日本会場保険協会、船舶保険共同会などの結成に尽力した。さらには、'27(S2)三菱信託を創設し初代会長となった。加えて、'29 日本郵船社長に就き、'35 日本郵船会長となる。三菱本社の取締役など三菱財閥系企業各社の要職を歴任した他、日本船主協会各会長、金融制度調査会、産業審議会各委員等となる。財界でも活躍し経済連盟会常務理事も務めた。
 海上保険のエキスパートとして海外でも高く評価され、日本の保険業界の代表者として世界からも注目された。'31.5.18 アメリカ雑誌「TIME」の表紙に日本実業家としてはじめて掲載される。日本人としては昭和天皇、東郷平八郎に次いで3人目の快挙。
 '30 貴族院勅撰議員に勅任され同和会に属し、没するまでその職にあった。在任期間(S5.12-S14.5)。'37 日本銀行参与理事、大蔵省顧問、国際観光委員会、内閣審議会各委員となる。
 '39 日本全国の電力会社を統合する日本発送電株式会社の設立特別委員長として創設させた。大蔵大臣に推挙されたが戦時内閣への協力を拒み固辞した。他に鈴木商店の破綻後それをもととした日商の設立に多大な援助をした。勲4等。同年逝去。享年70歳。正5位追贈。その死は「London Times」など欧米各紙は哀悼の意を表し生前の各務の業績を讃えた。
 遺言による寄付金で母校の東京商科大学東亜経済研究所(一橋大学経済研究所)が設立された。
 第一生命保険創業者で生命保険業界の基礎を築いた矢野恒太と並び、わが国保険事業の確立者として称されている。宇野木忠『各務鎌吉』(1940)、岩井良太郎『各務鎌吉伝』(1955)など自伝本も刊行された。

<コンサイス日本人名事典>
<財界人物我観>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<平凡社世界大百科事典>
<東京海上日動の歴史>
<人事興信録など>


墓所 墓所

*墓石は和型「各務家先祖代々之墓」、左右に各務鎌吉と妻の繁尾の戒名が刻む。各務鎌吉の戒名は謙徳院殿昭道禅英大居士。繁尾の戒名は松壽院殿謙室道繁大姉。右面は鎌吉と繁尾の没年月日と享年が刻み、鎌吉は初代とあり享年は72歳と刻む。左面は「昭和十五年五月二十七日 各務孝平 建之」と刻む。墓石に並んで左側に墓誌が建ち、鎌吉、繁尾、謙蔵が刻む。墓石手前、墓所入口から正面に早死した子を祭った仏像墓石が建つ。

*妻の繁尾(M14.6-S48.10.22) は岩崎弥太郎の姪。繁尾の母の佐幾は岩崎弥次郎・美和の次女で三菱財閥創業者の岩崎弥太郎の妹かつ三菱の2代目総帥の岩崎弥之助の姉にあたる。よって、三菱の3代目総帥・岩崎久弥(弥太郎の長男)、三菱の4代目総帥・岩崎小弥太(弥之助の長男)、旭硝子社長・岩崎俊彌(3-1-15-56:弥之助の次男)は繁尾の従兄。母の佐幾は土佐稲荷神社初代名代人の藤岡正敏と結婚し、繁尾は4女。

*東京海上火災保険会長や明治生命保険会長等を歴任した荘田平五郎・田鶴の5男で鎌吉からみると妻の甥にあたる孝平を養嗣子とする。各務孝平は三菱重工取締役などを務めた実業家で墓所建之者としても名が刻む。鎌吉の死後、繁尾により孝平は廃嫡されるが、各務姓はそのまま使うこととなった。なお孝平の妻は鉄道人・実業家の西野恵之助(2-1-13)の3女の美恵子。二人の間には鶴子、陽子の二女を儲けている。長女の鶴子は三菱銀行副会長や東京倶楽部理事長を務めた吉沢建治に嫁し、次女の陽子は政治家の村上義一(22-1-22)の二男で商船三井に勤めた村上祐一に嫁す。

*鎌吉と繁尾の間に長女の光子を儲ける。光子は富士瓦斯紡績取締役の沢田退蔵に嫁ぐ。退蔵の兄は外交官の沢田節蔵と沢田廉三で、廉三の妻の美喜は繁尾の従兄で岩崎久弥の長女。鎌吉が亡くなった後、繁尾が沢田退蔵と光子の次男で鎌吉からみると孫にあたる謙蔵を養嗣子とする。各務謙蔵(R1.6.14没・享年84歳:同墓)は日本美術の収集家である。海外勤務の際に自国のアーティストによるアート作品を精力的に収集するコレクターたちを目の当たりにし、1970代頃より本格的にコレクションを開始した。コレクションの多くは群馬県立近代美術館に寄託、展示されている。



第275回 日本の保険事業の確立者 損害保険業界の父
各務鎌吉 お墓ツアー 海上保険のエキスパート


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