山城国相楽郡稲田村(京都府相楽郡精華町)出身。農具の改良や米穀の販売に熱心で村の庄屋となった祖父の後を継いだ藤田茂三郎の次男として生まれる。8歳で母を亡くし、後妻としてきた継母に対して兄弟で反抗的態度をとっていた幼少期を終生後悔したことをのちに述べている。
京都府立京都中学校に補欠合格で入学できたことに発奮し卒業は優等となる。1884(M17) 慶應義塾に入学。同年、親戚にあたる西野りう(同墓)の養子となり、1886(M29)西野家を相続した。塾生時代は毎週土曜日の福澤諭吉との土曜会に参加。一緒に参加していた伊吹雷太(後の藤山雷太:11-1-2-2)とは親しく、後に藤山雷太が起ち上げる企業等の発起人や取締役になる。
1887 慶應義塾本科卒業。この頃、神戸から下関 間の鉄道敷設構想が高まり、慶應義塾塾員であった時事新報社長の中上川彦次郎が創立委員総代となった。中上川は開業前の山陽鉄道株式会社に慶應義塾の卒業生10名に声をかけた。その中の1人として選抜され入社。業務習熟のために新橋や横浜で見習いとして官設鉄道に派遣された。塾員の入社はその後も続き、1889米国帰りの諭吉の子の福沢捨次郎(2-1-12-5)が入社している。
見習い後は、倉庫課、運輸課を経て、1894.11 運輸課長事務取扱 兼 旅客掛長に昇進した。翌年末には運輸課長に就任。この間、1894 山陽鉄道総支配人に塾員の牛場卓蔵が抜擢されたことで、牛場の下で鉄道界において大きな治績をのこした。特に急行列車運転開始、車内電灯の試用開始、大阪-三田尻(防府)間の急行列車に食堂付き一等客車の連結開始、寝台車の連結などを現場で指揮して実現させ、他にも赤帽、列車ボーイの設置など、その着想は常に斬新して意表をつき、多くの発案が採用され実現させたことで創設的鬼才と称された。
1899.11 鉄道事業視察のため欧米諸国へ渡航。この視察で多くの事を得て帰国をする。特に「切符を売ってやる」という心持ちから、「切符を買ってもらう」という観念に変え「有難ふ」の一語を添えて旅客との応接も丁寧に率先実施するよう述べた。1901.4 海外から得た知見をもとに、荷主から荷物を直接受け取り、配達にも対応する直扱のサービスを始める。この直扱は自社傘下の鉄道連絡船と組むことにより、舟運に流れていた四国・九州向けの貨物獲得に成功、増収に大きく寄与した。また、同.5 厚狭-馬関(下関)間の開通をもって全線開業がなされ、馬関-門司 間に連絡船を直営で開設。これを記念して、西野が編者となり『山陽鐵道案内』を刊行した。
さらに、'02下関駅構内に和式・洋式旅館をそれぞれ建て、洋式を山陽ホテルとして直営で営業した。このように、山陽鉄道の宣伝とサービスは他社の鉄道会社よりも進んでおり評価が高く、他社の鉄道(関西鉄道・京都鉄道・官営鉄道など)の運輸課職員の毎月開催されていた会合にて、西野の知見を共有しそのサービスマインドが取り入れられた。鉄道界では「西野の山陽か、山陽の西野か」とまで激賞された。
一方で、入場券の売上を岡山孤児院に寄付するとともに、その寄付金用に慈善箱を設置。この行動は後に顧客参加型フィランソロピー(利他的活動や奉仕的活動)の枠組みの走りと評されている。
'06.12(M39) 山陽鉄道は国有化され逓信省鉄道作業局の管轄となる。同省への要職を用意されたが固辞し、鉄道界から去り上京。'07.2 荘田平五郎の推薦を受けて、帝国劇場株式会社の専務取締役に就任した。
当時は欧州型劇場が待ち望まれており、荘田や渋沢栄一、福沢捨次郎らが奔走し創立仮事務所を設立していた。いよいよ発足するにあたり抜擢され、同じ取締役に福澤桃介(9-1-7-1)、手塚猛昌らが就き、支配人は同じく山陽鉄道から転身した山本久三郎が着任した。西野は「鉄道屋より転じて興行師と為る。殆ど関連なき事業に出入するが如きも決して然らず、鉄道と興行とは等しく客を誘うと云ふ点に於て一致す。而(し)かも事業の新規創意の点に於て大に余が心を惹けり」と心意気を語った。
畑違いの者が来たと古くからの興業者の嘲笑の中、劇場経営の在り方を刷新し、東都演芸界に一大革新をもたらした。まず自由平等性確保のために見物方法の改良を挙げた。代表例は「切符制度と座席の導入」。今までは多くの客を一同に詰込む板敷きの見物席に座らせる桟敷(さじき)が一般的であったが、それを廃して座席とした。これにより、観客は開場10日前より座席一覧表から好みの席を選択して観覧券を購入できるようになった。更に座席とすることで、腰掛の下部には帽子掛を、後部には洋傘・洋杖をかける凹所を設けた。この仕様は、山陽鉄道時代に客車内に使用して好評を得たアイデアで、それを観劇の席にも応用した。'11.3 帝国劇場は初演を迎え大盛況を収めた。
'12.2 専務の後任を手塚猛昌に託し、同.3 欧米諸国に視察のため渡航。'13.2(T2)視察から帰国し、東京海上保険株式会社の招きにより、東京本店 兼 営業部長に就任、後に傘下の明治火災保険株式会社の支配人となった。'17.11 東洋製鐵株式会社の常務取締役、'21.7 白木屋呉服店社長に就任。後に白木屋社長の後任に山陽鉄道で列車ボーイを務めた山田忍三が後を継いでいる。
'28.3(S3)日本航空が設立され初代社長に就任。機材買い付けのため欧米諸国へ出張し、翌年の旅客運航開始に漕ぎつけた。'31 同職を退き、全ての要職から引退。才幹を縦横に発揮して注目をひき、接客精神を根付かせ、それらは手掛けた業界で結実した。晩年は那須温泉に疎開をしたが、その地にて逝去。享年80歳。1996(H8)油井常彦の編集で『西野恵之助伝』が刊行された。
<鉄道先人録> <山陽線物語(青木槐三の人物に見る鉄道史4)> <山陽鉄道の商人かたぎ> <三田評論「福沢諭吉をめぐる人々」など>
*墓所には5基建つ。正面十字を刻み台座に「NISHINO」、裏面「西野恵之助 西野清子」と刻む。墓所右手側に恵之助の養母の和型「西野りう之墓」が建つ。左面に「明治十九年五月廿九日死」と刻む。墓所左手側には2基が並んで建ち、右側が「西野稔之墓」(裏面:明治二十八年十月一日生 / 明治四十一年五月十一日死)、左側が「西野牧之墓」(裏面:明治二十八年十一月七日生 / 大正九年十一月十日死)。正面左奥側に和型「西野豊 百合子 之墓」、裏面「豊 明治四十一年四月十四日誕生 昭和九年十月十日永眠」、左面「百合子 明治四十三年十二月八日誕生 平成七年一月二十三日永眠」と刻む。
*各務鎌吉(16-1-1-1)の養嗣子の孝平(三菱重工取締役)の妻は西野恵之助の三女の美恵子。鎌吉の死後、各務鎌吉の妻の繁尾により孝平は廃嫡されるが、各務姓はそのまま使うこととなった。
第248回 鉄道界の鬼才 山陽鉄道 帝国劇場 西野恵之助 お墓ツアー
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