メイン » » » 森 槐南
もり かいなん

森 槐南

もり かいなん

1863.12.26(文久3.11.16)〜 1911.3.7(明治44)

明治期の漢詩人、伊藤博文の秘書官

埋葬場所: 14区 1種 3側 3番

 尾張国名古屋(愛知県名古屋市)出身。漢詩人の森春濤、歌人の森清子(共の同墓)の長男。名は公泰(きみやす)、通称は泰二郎(泰治郎)。字は大来(たいらい)、槐南は号。別号を秋波禅侶(しゅうはぜんりょ)・菊如澹人(きくじょたんじん)。
 鷲津毅堂や三島中洲に師事。父にも詩学を学び、明詩風の詩をつくった。主に各紙新聞にて健筆をふるう。漢詩人としての活動の傍ら、枢密院属となり、宮内省で大臣秘書官、図書寮編集官、式部官などを務めた。また東京帝国大学文科大学講師として中国文学を教えた。
 1904(M37)大久保湘南が上京して「随鴎吟社」を創立した際に、盟主として主宰。詩壇最大規模の詩会と称せられるほど発展し、森槐南は明治漢文学の中心的存在となった。
 三条実美や伊藤博文など明治政府の要人とも親しく、韓国総監を辞職した伊藤博文の秘書官を務める。1909.10.26 ハルビン駅において韓国の独立運動家の安重根による狙撃事件が起こり、伊藤博文は暗殺され、同行していた森槐南も被弾した。森は軽傷で済んだが、それが原因かは不明であるが、その約1年半後に逝去。享年47歳。

<コンサイス日本人名事典>
<20世紀日本人名事典>
<朝日日本歴史人物事典>


墓所

*正面和型「森家之墓」、裏面「昭和十年十一月 森健郎 建之」。墓所右側に3基並ぶ。真ん中が森春涛の墓「詩人森春濤先生墓」、裏面「明治廿二季十一月廿一日歿 男泰建」。左の小さい墓石が森春涛の妻で歌人の森清子の墓「国島女教師之墓」(国島は旧姓。後妻)。右の大きい墓石が長男の森槐南の墓「森槐南先生墓」、左面「明治四十四年三月七日歿」が建つ。墓所左側に墓誌が建つ。墓誌の初めは春涛の前妻の逸子から刻みが始まり、次に後妻の清子、早死した子の次に、森春涛が刻む。戒名は老春院森髯居士。早死した子二人を挟み、森槐南が刻む。俗名は泰二郎とあり、戒名は文尚院槐南日泰居士。同墓には森槐南の妻の幾保(S8.11)、槐南の子息、森健郎(S22.11歿)、森携郎(S21.4歿)、孫の森正治(R4.6.25歿)も眠る。

*森春涛は 1889年11月21日(明治22年)に亡くなっており、清子は1872年(明治5年)に亡くなっているため、没後、森春涛と清子は日暮里の経王寺に葬られた。また、父の後を継ぎ、漢詩人として活躍した長男の森槐南は、1911年(明治44年)に亡くなっており、最初は青山霊園に埋葬された。1933年8月(昭和8年)に槐南の妻の幾保が亡くなったことや、青山霊園の区画整理などが重なった時期でもあり、これを機に、バラバラに建立されていた墓を多磨霊園にまとめ、1935年11月(昭和10年)森健郎が墓所を整え改葬し合葬したと思われる。

*森槐南の妻の幾子の弟は日本の保険事業の確立者・損害保険業界の父である各務鎌吉(16-1-1-1)。



第537回 明治漢文学の中心的存在
伊藤博文暗殺事件で被弾 随鴎吟社 森槐南 お墓ツアー


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・ま行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。